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日々の生活を彩るさまざまなアイテム。その道のプロだからこそお伝えできる、ならではの楽しみ方をお届けします。
文:田中三貴
田中三貴
アロマテラピスト・調香師として1998年から京都で活躍。香りで「ことば」を表現するという独自の方法を用いる。花柳界を中心に歌舞伎・芸能界などの方々に支持され、オリジナルのフレグランスを提供。
追風用意―
古典にもたびたび出てくる香りを表す言葉である。「追風」とは「衣服に焚きしめられた薫香の匂いを伝える風」つまりは、通り過ぎた後に漂う匂いである。「用意」とは、配慮、心遣い、嗜み。人とすれ違ったときあとから風に乗って仄かな香りが漂うよう、あらかじめ衣服に香りを焚きしめておく、自分の去った後の香りにまで配慮をしておくという、細やかな心遣いである。
香りを焚きしめるのは衣類だけではなく、紙に香りを焚きしめることも貴族階級には重要な用意であった。というのも、平安時代の男女の付き合いはまず、恋文からはじまるからだ。したためられた文は、目当ての姫君のもとへ届くまでに、乳母によって封を開かれ品定めが行われた。紙の種類や、添える心葉(こころば・梅や藤などの折枝)の趣味、文字の筋、和歌の腕前、そして、紙に焚きしめられた薫物の香りなどから姫君にふさわしい男性であるかを厳しくチェックされる。貴族はめったに顔を見せない時代であるからこそ、焚きしめられた香りには品格や教養をあらわすという大切な役割があり、自分をアピールする最大の手段であった。
夜の闇に身を過ごしていた貴族人はこの漂い流れる薫物の香から通り過ぎゆく人の正体を嗅ぎあて、すれ違いざまの芳香に「ああ、あの方であったか…」と気づく。そして、その一瞬のために、前もって衣類に香りを焚きしめて用意をしている。また、文を交わす男女の間で行われていた思いを伝える慣習に過ぎないのかもしれないが、見えない相手の気持ちを想像し、季節の花を添えて、自分の香りを焚きしめる。その封を開いた瞬間にふわっと広がる香りによって心豊かになる人のために、前もって紙に香りを焚きしめて用意をしている。
これ見よがしに香りを漂わすのではなく、相手に気づかれないようにもてなしをする貴族人の香りの美学である。
香りの在り方とは、時には温かい人間味を感じさせる、時には凛とした気品によって人間関係に節度をもたらす、ただ単純に香りをふりまくのではなく、追風用意により、自分へも安らぎを与え、周囲の人の心を和ませ包み込む。
たとえ特別な香りを纏っていなくても人が去った後には、香りだけではなくさまざまな余韻が残る。その人となりをあらわすような、優しい笑顔や爽やかな態度、気遣いのことばなどの、心地よい追風である。残り香や移り香で見えない相手をもてなす、なんとも奥ゆかしく優雅な、日本人の心遣いを表す文化ではなかろうか。
追風用意は、香害が騒がれだした現代が大切にするべき香りの楽しみ方であり、周囲へのエチケットだと思う。車や特別な空間に焚きしめられた香りの中で心豊かに時を過ごしたのち、身に纏った香りとともに心の「追風用意」ができるよう日々を過ごしたいものである。