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車の歴史を紐解き、面々と息づくクラフトマンシップをレポート 文:モーターライター・西川淳
文:西川淳 写真:Jun e Co.
西川淳
モータージャーナリスト
1965年 奈良県生まれ。京都大学工学部卒業。(株)リクルート・カーセンサー副編集長を経て、99年に独立し編集プロダクションを設立。フリーランスとして雑誌、新聞、ネットメディアに多数寄稿する。専門はラグジュアリィカー、ヴィンテージカー、スーパースポーツ。2018-2019 日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本自動車ジャーナリスト協会会員。自動車の歴史と文化を語りつつ、産業と文明を批評する。京都在住。
ヴィンテージカーの愛好家たちによるドライビングイベントが今、世界中(といっても自動車先進国のなかだけだが)で興隆をみせている。日本でも盛んなラリー形式のツーリングイベントから、クラシックなレーシングカーによるサーキットイベントまで、その数も種類も年々増え続けていると言っていい。電動化や自動化といった実用車のCASE化が進んでいくなかで、対極にある趣味のクルマたちに斯界の好き者たちの興味がいっそう集まっていくことは、不思議でも何でもなく、むしろ当然というべきだろう。今回はラリーイベントの最高峰というべきイタリアはミッレミリアの内側を少しだけ覗いてみたいと思う。
ミッレミリアとは“千マイル”を意味するイタリア語。全行程が1600キロ前後あることに由来する。1927年から57年まで、三十年間に渡って開催された由緒ある公道レースがそのオリジンだ。アルファロメオやブガッティといった当時の高級ブランドがしのぎを削る舞台であったと同時に、ブレシアをスタートしローマを折り返してブレシアに戻ってくるという過酷なスピードレースでもあった。
57年に悲惨な事故が発生し以後の開催が禁じられたが、77年に現在のラリー形式イベントとして復活する。しかも出場可能なモデルは27年から57年の間に参加した車両および、その年代に生産された同型車(同ブランド車が認められることも)に限るという制約つきだった。
参加台数は今や450台以上を数える。一分毎に三台スタートしても、1号車が発車してから最後のクルマが出るまで実に2時間半もかかる計算で、それはそのままゼッケン番号の大きな参加者は目的地への到着時間も遅くなるという計算に……。
ちなみにゼッケンの並びは最初にOMというブレシアの今は亡きブランドから付け、そのあとは年代順。つまり、古いクルマほど先にスタートできる。これは日本のラリーイベントでもだいたい同じで、みんなこぞって戦前の年式の古いマシンを購入したがる理由のひとつにもなっている。往年の流儀に則ってスタート地点はブレシアの街中だ。前々々日に引き取り、前々日に車検を済ませ、前日にはブレシア市内でシーリング。そしてスタートを迎えるという一連の準備を独力で行なわなければならない。
昨年に筆者が友人とともに1927年式のブガッティで参加したときの様子を、順を追ってリポートしてみよう。
初日。街外れにあるミッレミリアミュージアム(クラシックカー好きは訪問の価値あり!)でオフィシャルランチを楽しんだのちスタート地点へと向かう。いよいよ始まるぞ!というワクワクとドキドキだけで、他に何も考えられない。
大観衆に見送られてスタートした。昨年の行程は4日間で1700キロ以上。3日間で行なわれた時代よりも過酷さは薄まっているが、90年前のヴィンテージカーで気軽に走りたいという距離ではない。
初日はパドヴァまでの280キロだ。助手席の仕事はナビ役で、コマ地図を読みながらドライバーにルートを指示しつつ、時間のコントロールやPC競技(通過タイムの正確さを競う。本国ミッレミリアでは120カ所もの設定があった)のサポートなどを行なう。50番のゼッケンをもらったが、まわりはもう何度も参戦経験のある猛者ばかり。沿道の観衆に愛想を振りまきながらチンタラ走っていると後が見る間に詰りだした。挙げ句にがんがん抜かされる。それはもう容赦なく抜かれる。そこが追い越し禁止だろうが、対向車線にクルマがいようが、おかまいなし。挙げ句の果てに信号だって守らない。日本の流儀からなかなか抜け出せないドライバーはただただ唖然。そう、これが本場のミッレミリア。国家警察の白バイ(青バイ?)が要所要所で先導もしくは交通整理をしてくれるというあたりも、お国柄というわけだ。 慎重に行き過ぎた結果、初日ひとつめのCO(到着タイム)競技には8分ほど遅れてしまった。なるほど、みんなが我先に急いで走るわけだ。速度や信号など交通ルールを守って走っていたら、まるで間に合わないのだから!
陽もくれかけたパドヴァに到着した。後編はこちら