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ラグジュアリーな日帰りドライブ旅

京都を拠点に出掛ける日帰りドライブ旅。ラグジュアリーで大人の好奇心を刺激をするドライブ旅をお届けします。

時代を先駆けた町 近江商人発祥の地  「近江八幡」

文・写真:小原誉子

小原誉子
「京都観光おもてなし大使」&旅ライター
御茶ノ水女子大学卒業。(株)サンリオ販売促進部、ラジオオーストラリア放送記者、(株)テレビマンユニオン取材プロデューサーを経て、集英社、講談社、世界文化社などのライターに。現在は特に京都など、日本の文化・観光情報を人気ブログ「ネコのミモロのJAPAN TRAVEL」で伝えている。京都在住。

京都の町中から、車で1時間。琵琶湖の東に位置する古い商家の佇まいを今に残す近江八幡は、北側を流れる「八幡堀」を中心に天正時代に楽市楽座で栄えた趣ある城下町だ。町を東西に横断する堀沿いや格子状に整えられた通りには、白壁の蔵や瓦葺きの黒壁の商家が軒を連ね、まるで江戸時代にタイムトリップしている心地になる。そんな町を一望する八幡山を居城としたのは、豊臣秀吉の甥 秀次である。歴史ドラマでは、関白になった後、秀頼の誕生で、その地位を奪われ、自暴自棄になり、酒に溺れ、狂暴化。さらに秀吉への謀反の罪をきせられ、切腹。その家族は、三条河原で無残にも処刑された、悲劇の武将という姿で描かれがちだ。しかし、近江八幡を訪れ、住民と話したり、その町づくりを見る限り、そのイメージとは全く異なる、非常に聡明で、また新たなものを積極的に取り入れ、民の暮らしを思う頼もしい人物だったことがわかる。

近江八幡の八幡堀

秀次が近江八幡の町づくりを始めたのは、天正13年(1585年)ごろ、なんと17歳の時だったというから、その才能に驚く。秀吉の指示があったとも言われるが、琵琶湖周辺の物流拠点として、往来する船を寄港させるための全長6キロに及ぶ「八幡堀」を中心にした町づくりが行われる。さらにかつて織田信長が安土城下で始めた、税を免除する「楽市楽座」を導入したことで、城下は大いに活気づいた。まさに「近江八幡」は、さまざまな物と人、情報が各地から集まる、その時代の最先端の町であったろう。秀次亡き後、江戸時代には、大阪と江戸を結ぶ交易の要所として発展し、豪商たちの土蔵や屋敷が建ち並ぶ、現在の町の形が出来上がった。そこには、おそらく当時の最新の物がいろいろ取引されただろうし、また各地の貴重な情報なども集まったに違いない。

近江八幡とメルセデスベンツ

若年ながら、家臣を束ね、実現した新しい町づくり。やはり秀次の優れた手腕と才能に興味惹かれる。その5年後、関白に任じられ、京都に秀吉が築いた聚楽第を、切腹させられる年まで住まいとした。そう考えると、秀次にとって「近江八幡」での日々は、おそらく彼の28年の短い生涯の中で、最も輝かしい時ではなかっただろうか。歴史の表舞台から消された秀次が、今、その優れた才能の軌跡を残しているのは、おそらくここだけかもしれない。
  
また、秀次の理想の町づくりを形にした「近江八幡」は、全国各地に行商に出向いた「近江商人」発祥の地でもある。徹底した合理化と斬新な経営方針を家訓にした「近江商人」の流れをくむ企業は、トヨタ自動車、ヤンマー、住友、丸紅、ワコール、西川産業など、名をあげたらキリがないほど多方面におよび、現在の日本の経済を支えている。もしかしたら、秀次という人物がいなければ、日本の今は、違っていたかも…と、勝手に想像が膨らむ。

近江八幡のウィリアム・メレル・ヴォーリズ建築

ところで、もう一つ、「近江八幡」というその時代の最先端のものに敏感で、新しいものを積極的に取り入れる住民の気風を物語るのが、明治時代から盛んに建てられた西洋建築だ。1905年に、この地に最初、高校の英語教師としてアメリカから来日した建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した、それまでの日本家屋のスタイルとは異なる、機能性を備えた西洋建築で、江戸の風情を留める町中に、現在24棟が点在している。京都などに設計事務所を構えたヴォーリズは、1906年から18年間で、日本各地に住宅164棟、学校や病院などの公共施設230棟あまり、さらに銀行や百貨店などの商業施設24棟を設計したと言われ、彼が近代の日本の建築界に与えた影響は、多大なものがある。夫人の一柳満喜子と共に「近江八幡」に暮らし、太平洋戦争が迫る1941年に日本に帰化した。1958年には病床のなか「近江八幡市名誉市民第1号」となったヴォーリズ。彼が日本国籍を取得するほど、日本を愛したのは、もちろん夫人の存在が第一だろうが、外国人である彼を受け入れ、尊敬した「近江八幡」の人々の存在も大きかったに違いない。おそらく彼が設計した建物が町に現れた時、住民は、さぞや驚き、好奇の目を向けたに違いない。しかし、今となっては、江戸の風情と近代日本が、混在する独特の趣を漂わせ、この町の魅力となっている。

クラブハリエ日牟禮カフェ

今も一般住宅として利用され、一般公開がされていない多くのヴォーリズの建物の中で、その魅力を存分に楽しめるのが、洋菓子の「クラブハリエ日牟禮カフェ」だ。かつて大阪朝日新聞社で活躍した忠田兵蔵氏の住まいだった、スパニッシュスタイルの外観をもつ和洋折衷式住宅で、縁あって和菓子の「たねや」の山本徳治会長が預かり、当時の趣そのままに補修し、現在は、その4部屋が貸し切りの特別室になっている。前日の予約で、ひとり500円で、「クラブハリエ」のスイーツが味わえる。アンティーク家具が設えられた部屋で、過ごすひとときは、なんとも心地よい。

クラブハリエ日牟禮カフェ

江戸時代は、「近江八幡」で材木商を生業にしていたという山本家。明治5年、七代目当主山本久吉が、京都で修業を積み、現在の「たねや」の礎となる和菓子店を創業した。商いの才に優れた「近江商人」の血筋からか、代々の当主は、その時代にあった製品づくりや経営を行い、全国の有名百貨店への出店や東京など都市部での直営店展開と事業は拡大し、関西では知らぬ人がいない滋賀県を代表する和菓子店のひとつだ。そんな和菓子店に1951年、洋菓子部門ができた。それを勧めたのは、ヴォーリズだったとか。バーム焼成機1号機を導入し、バームクーヘンブームの火付け役ともなった。
  
「近江商人」の家訓にある人材を育て、大切にするという企業姿勢は、創業以来変わらず、ここで腕を磨いたパティシエは、世界的な洋菓子コンクールでさまざまな部門で受賞している。
  
現在、国の重要伝統的建造物群保存地区になっている歴史の町「近江八幡」。そこで暮らす人々は、移りゆく時代に、常にその時代に合ったものを探し出す鋭い感覚を持っていたのかもしれないと思うと共に、この町を拠点に、全国さらに世界を舞台に活躍の場を求めた人の気概をも感じる。その礎を築いたのは、やはり若き城主、秀次であろう。そろそろ秀次への歴史的評価が、変わってもいいのではないかと、この町を訪れるたびに思ってしまう。「近江八幡」の魅力は、今後さらに注目されるに違いない。緑が茂る「八幡堀」の美しさは、夏の日帰り旅にふさわしい場所である。

近江八幡の八幡堀

  

*「近江八幡」交通所要時間:最短コース:京都南インターから、名神高速道路竜王インターを経て、約1時間。のんびりコース:大津から琵琶湖東側の湖周道路を経て、約1時間半。
*「八幡堀めぐり」所要時間:約35分 ご予約・お問い合わせ☎0748-33-5020 料金1000円
*「クラブハリエ日牟禮カフェ」滋賀県近江八幡市宮内町日牟禮ヴィレッジ ☎0748-33-3333 営業時間 9:00から17:00LO 無休 特別室の予約は☎0748-33-9995
http://clubharie.jp/shop/himure/

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