
上質なシルク原料
岡修三(松村株式会社繊維原料部部長)×梶原加奈子(テキスタイルデザイナー)×吉村優(Kiwakotoディレクター)
今回Kiwakotoが、職人のこだわりの詰まったテキスタイル商品をリリースするにあたり、シルク起毛ブランケットメーカーの瀧芳さん、シルクカシミアストールの武藤さんにお話を伺いました。今回、私たちは世界のテキスタイルを見てこられたデザイナー梶原加奈子氏をプロジェクトに迎え、ラグジュアリーなライフスタイルの中に共に置きたいテキスタイルとして「シルク」という素材に着目し、商品に取り入れることにしました。
そして偶然にも、今回ご依頼している瀧芳さん・武藤さんが糸を仕入れられているのが、京都で創業155年のシルク専門商社・松村さんでした。
いいものをつくるには原料から。日本有数のテキスタイルづくりを支える同社の繊維原料部部長にもお話を伺いました。

吉村:
梶原さん、今回の商品開発におけるキーワードは「シルク」だと思いますが、その魅力やグローバル市場における価値を教えてください。
梶原:
和装が中心の時代には、日常生活の中でシルクは身近に使われていました。しかし、洋装が発展した現在においては、高価で手入れが難しいイメージが先行し、多く使われにくくなりました。ですが近年、天然繊維であるシルクのアミノ酸配合は人間の皮膚に一番近いことが知られるようになり、ラグジュアリー素材という側面だけではなく、体に心地良く負担を掛けない素材として、認知度が上がってきています。日本では加工技術を生かし、自宅で洗うことのできるシルク開発されていることもあり、海外のトップメゾンからは、上質で細番手のシルクの糸以外にも、日本の機能性シルクの開発に評価が集まっています。
その他、シルクと他の素材を複合させたものや、シルクライクの合繊素材でも日本の技術は非常に評価が高いと思います。
岡:
近年では、肌に優しいという機能的な魅力から靴下や肌着などアパレル業界で上質なシルクを求めるお客様が増えてきたと実感しています。
吉村:
平成17年の絹糸・絹織物の自由化に伴い、大手総合商社は、相次ぎシルクから撤退されました。そんな中、御社が生き残ったのはなぜなんでしょうか。

岡:
絹糸・絹織物の自由化以前は、シルクは言わば「利権ビジネス」でした。当時は大手商社のほとんどがシルクを扱う商売をしていましたが、自由取引になって以来、徐々に撤退されていきました。弊社は、京都に地盤をもち西陣エリアを中心に、営業マンが日々、直接お客様のところに伺っていたことが強みであり和装の発展と共に成長してきた会社です。お客様のご要望に細かく応え関係性を築いていたため、自由化の後も大きな影響は受けずに、存続することができました。
梶原:
直近はインドシルクも業界としては注目されています。まだまだ生産コントロールが難しい側面もあり、これからの発展かもしれませんが。
岡:
他にもベトナムでは日系人の方が日本の昔の技術を転用し、蚕を育てるところから撚糸まで一貫体制の拠点を展開されている工場もあります。技術と共に、日本の強みである丁寧な生産体制を確立されていて、これから益々伸びていくだろうと考えています。
そういった生産者さんから、すばらしい素材を仕入れさせていただき、各ものづくりの現場に合わせて適切な材料をつくり届けることができます。
梶原:
日本人の繊細で丁寧な物作りの感性が、究極の技術を育て、グローバルから求められる素材や商品を生産できるのだろうと思います。素晴らしい物作りの職人さんたちと交流できる事に心から感謝し、バトンを受け継ぐように素材にデザインを合わせていきたいと思います。そして、日本のものづくりから生まれるものを多くの方に触れて頂きたいと思います。
吉村:
日本の脈々と続く技術やものづくりの精神が、国内外で受け継がれていくことで、新たな市場価値を創造していることを、シルク素材を通じて学びました。この十数年、和装業界は縮小していますが、ものづくりの精神は活きていて、そこで培われた技術が形を変え、未来に残っていく。そういったポジティブな連鎖をつくり出す取り組みを私たちも生み出していきたいです。
パートナー対談 Vol.9

空気を纏うテキスタイル
武藤 英之・武藤 圭亮(武藤株式会社)×梶原加奈子(テキスタイルデザイナー)×吉村優(Kiwakotoディレクター)
山梨の織物が初めて書物に登場したのは平安時代。「延喜式(えんぎしき)」という当時の法律を細かく定めた書物に、「甲斐(山梨)の国は布を納めるように」という意味の文章が見られます。また一説には、秦の始皇帝の時代、方士・徐福(じょふく)が「東の海の果てにある蓬莱の山(富士山)」にあるといわれた不老不死の薬を求めて、日本へやってきましたが、薬はついに見つからず、故郷に帰ることもできなくなり、村の娘と結婚。富士吉田の地で暮らすことになり織物の技術を村の人々に伝え、やがて村では織物が盛んになった、といわれています。
富士山の湧き水は超軟水で、鉱物などの余分なものが含まれていないため、染色に向いているとされます。土地の恩恵もあり、先染めのきれいな色柄を織ることができる産地として発展しました。
この地で天然素材の極細糸のストールづくりをされる武藤株式会社の武藤英之さんと武藤圭亮さんにお話を伺います。売上3億円程度の小規模工房が、わずか30年足らずで、世界トップクラスの技術力を磨き、ここにしかないテキスタイルを作り上げたストーリーです。

吉村:
今日は、梶原さんは東京から、我々は京都から、山梨の武藤さんの工房に集合しました。空気が本当にきれいで気持ちがいいですね。今回は、梶原さんのご提案もあり、一緒にものづくりができ本当に嬉しく思います。
梶原:
武藤さんとは、最近は、テキスタイルの展示会でばかりお会いしていますよね。久しぶりに工房に伺いました。私が企業と共に初めて製品ブランドを始めた時、日本産のストールを作ることになり、様々な産地で素材を探していた時に出会いました。今回、Kiwakotoのストールのお話をいただいた際、真っ先に、武藤さんをご提案しました。技術的に世界トップクラス、他にはない柔らかな風合い、そして心地良さにこだわった天然繊維。これに、京都の染色の技術をコラボレーションしたらきっと魅力的なものができるだろうと直感的に思いましたので。いいものを見続けているお客様にこそ手に取ってもらいたいですね。
武藤英之:
他産地とのコラボレーションはうちにとっても刺激的です!うちは必要に迫られ、ほとんどの工程を内製化していますが、今になって、この体制がチャンスをつくっているとつくづくと感じますね。うちは、極細糸の天然素材を軸にストールを織り続けています。染め、織り、仕上げは基本的には自社内で対応できる体制を組んでいます。最盛期、富士吉田には、4万台の織り機がありました。今では2,000台。昔は多くの職人が切磋琢磨し、一旗上げたいと腕っぷしをきかせた職人には、ちょっと変わった仕事を持ち込むと「よし、やったる」とすぐに協力してくれました。今2,000台になり、職人の高齢化が進むと、新しい仕事は「ちょっと今忙しいからね」「やったことないからね」と断り文句から始まってしまうことが多々あります。
そんな背景もあり、うちが天然素材の極細糸で織ると方向性を決めてから、必然的に内製化しないと、私の求めていたようなストールが織れませんでした。
武藤圭亮:
自社内完結なので、お客様から「こんなことやってみたい」と言われた際には、まずやってみようと一歩踏み出すことが容易です。しかし、デメリットもありカバーする工程が広くなると、どうしても広く浅くになりがち、効率が落ちがちです。一点に拘ろうとするとスピードが落ち、市場の求めるスピード感で仕事を進められなくなる。技術を落とさず、市場にスピードを合わせることが、今後のテーマだと思っています。
梶原:
世界のモードと向き合うには、提案するタイミングと生産するスピードも大切です。また常に新しいアイデアを求められるので、アップデートしてPRしていく必要がありますね。IT業界のスピード感がものづくりにも要求されています。
市場の変化を意識することは大切。それ以上に、自分のつくりたいものを見つけ徹底的にやりきる。
武藤英之:
親父の代は、婚礼布団用の緞子生地を作っていました。当時、布団屋の稼ぎ頭といえば、この婚礼布団。数百万、数十万の布団セットが普通に売れていた時代です。当時の工房の売上げが3.5億円。損益分岐点が1.4億。損益分岐点が遥か下にあるから気がつかないだけで、私が入社する以前の約5年で8,000万円の売上げが目減りしている状況でした。大学で経営を学んでいた私は、「この商品では一生は食べていけない」と瞬間的に思いました。
メーカーの戦略は、同じ市場に違う技術を投下するか、同じ技術で市場を変えるか、です。私は、同じ市場=寝装に、違う技術で展開しようと、当時、流行始めていた羽毛布団・羊毛布団に取り組むべく設備導入をしました。やってみて気がついたのが、この領域は設備投資、原料の仕入れなど20億以上投資ができないと商売にならない、ということです。
例えば、原料をハンガリーから仕入れて神戸港に入港するころには、(まだ製品になっていないのに)次の原料がハンガリーを出航しないとタイムロスが出ます。とても、売上3億の小規模工房には、無茶なビジネスでした。
すぐ、無理と判断し、織物に戻ろうと服地開発に取り組みました。2年ほど取り組みましたが、当時はデザイナーズブランドが盛んな時代で、非常に細かい仕事で、「性格的に無理だな、どうしよう」と悶々としていました。
梶原:
1900年代ごろは、国内のデザイナーズブランドが伸び盛り非常に元気で、日本の産地にも多くの仕事が流れ、デザイナーの無理難題にいかにアジャストしていくかという時代だったと思います。特に富士吉田は、高密度のシルクジャカードに特性のある地域と業界では認知されていたので、意匠性にこだわりを持った開発依頼が多かったと思います。

武藤英之:
そんなときです。百貨店を歩いていたときに、当時5,000円程のマフラーが目に入りました。「俺やるのこれじゃん」と瞬間的に思いました。うちの機械で織れる、とすぐに試作し、付き合いのある卸先に持っていくと、とんとん拍子に売り場に並び、よく売れました。自分には経営の才能があると若干、天狗になっていましたが、何のことはない。バブルに突入しただけでした。バブル崩壊後、うちも工房の規模を縮小し、耐え忍ぶ中で、自分がやりたいのはなんだろう、何故、ストールに惹かれたんだろうと考えました。
答えは、手触りでした。肌に触れる柔らかさ、手触りに魅力を感じたのだと。そして肌に触れるものだからやさしい素材のものがいい。また国内市場は、中国製品がどんどん入ってきている時期で、富士吉田の産地でやるなら、高級品をやるしかない。どうせやるなら世界トップクラスを目指そうと。
梶原:
天然素材ということにも、拘っていますよね。
武藤英之:
肌に触れるものですからね。やさしい素材を突き詰めていくと、天然繊維にたどり着きました。風合いは糸の細さからつくられるでしょう。天然繊維しか織らない。天然繊維の中でも世界で一番細い糸しか織らない、と決め、これで世界トップを目指すことにしました。
自産地にノウハウのないものは、時には頭を下げてでも、外から取り入れる
吉村:
ご自身の作りたいものと富士吉田の手がける意図が、「天然素材の高級ストール」軸で一致したのですね。細い糸がポイントになってくると思うのですが、武藤さんが望んでいたような糸は、世の中にあったんですか。
武藤英之:
一部では流通していたようなのですが、田舎の一工房にはそう簡単に手に入れることはできませんでした。天然繊維よりも科学繊維の方が流通量が大きいですしね。あるとき、工場見学をさせていただいた大手の毛製屋さんに、当時、自分が思う最高級品質のロロ・ピアーナのストール生地を持ち込み、「ロロ・ピアーナの生地で、糸は110番だと思います。この糸よりも細い糸を天然繊維でつくってください」とお願いしました。50万円くらいする生地をその場で切り裂いたので、お相手はびっくりされていましたが、勢いを買って、1tだったら作ってやるという話をされました。単価3,000円/kgでしたので、3,000万円の投資、うちには到底、無理な金額です。もう一度頭を下げて、100kgで作っていただくお願いをしました。

武藤英之:
毛製屋さんに会うたびに、細い糸はないかと聞き、麻の300番を手に入れ、翌年、「もっと細いのあるでしょ」と、500番を手に入れる。500番は、29デニールで化学繊維より遥かに細い。こうして、どんどん細さを追求することを続けています。更に、オーガニックコットンの細番手にもチャレンジしています。
梶原:
オーガニックコットンの単糸*で細番手は業界でも非常に珍しいです。通常、100番までしか作りたがらないので、125番にチャレンジするというのは、すごいと思います。
武藤英之:
地球上で、農薬が使われているのは綿栽培において全体の7割だそうです。単純に、そのすべてがオーガニックコットンになれば、地球上の農薬が7割減るという話を聞き、より積極的に取り組んでいきたい材料のひとつと考えています。武藤単独でできること、富士吉田という一産地でできることは限られています。自社・産地の技術を最大限に生かす方法を、自前でないものは外から取り入れて、見出すのが大切だと考えています。
吉村:
良いものは柔軟に取り入れよ、と開国を進めた坂本竜馬の考え方ですね!
梶原さん:
日本のこだわりの物作りと向き合っている人たちは、武藤さんが今、何に取り組んでいるか、気にされてます。
武藤英之:
私は、やっていることはオープンに話しちゃいますね。話しただけで、真似できるのであれば、やればいい。そのほうが闘志がわきます。それに、この富士吉田の地域は、自分のところにしかできないものを追求する性分があります。よそにはできないものを、オリジナルは何か、とお互いを高めあう環境なので、各々どんどんやっていることをオープンにして、いいものを取り入れる。そうやって、1000年以上、機の音を絶やさず、生き延びてきたのです。
世界を目指して、織機を操る。
梶原:
国内のトップメゾンにはその技術力が知れ渡っています。更なる発展のために、欧州・米国のラグジュアリーブランドに食い込むため、展示会にも積極的に出るなど、息子さんたち初め次の世代が奮闘していらっしゃいます。
武藤圭亮:
大学との連携や自社の技術ブランドが確立する中で、生地作りに携わりたい若者が採用できています。中には、横浜から移住して来てくれている子もいます。30代中心に、「まずやってみよう」というところから取り組むことのできる環境が非常にありがたいです。
天然素材の風合いを最大限に引き出すために、織機の使い方を日々研究しています。低速で機械を動かし、横糸を投げ込むスペース、つまり縦糸と縦糸のクロスする部分を大きく開け、横糸を縦糸で包み込むように織っていく。そうすることで目を緩くし、素材の持つ風合いを崩さずに生地に仕上げることができます。時間がかかり非効率ですが、そうでないと武藤のストールはできない。織機が動いている間中、職人は機械に付きっ切り。体力と根気の要る仕事です。
吉村:
フワフワの優しいストールを触った瞬間、感動するのは、クオリティだけではなく、これを作り出せる皆さんの魂を感じるからだと思います。これからの武藤さんが作り出すストールのファンであり続けたいと思いますし、多くの方に素晴らしさを伝えていきたいと思います。
次回は、日本有数のテキスタイルづくりを支える京都で創業155年のシルク専門商社のストーリーです。
*単糸
1本の糸を使ったものが「単糸」、2本の糸をより合わせて1本の糸にしたものが「双糸」。双糸は、2本の糸を撚り合わせているので、太く上部になり、1本の糸(単糸)よりも 太さが均一な糸になる。
パートナー対談 Vol.8

フワフワなシルク
瀧谷芳則(瀧芳株式会社)×梶原加奈子(テキスタイルデザイナー)×吉村優(Kiwakotoディレクター)
起毛とは、生地の表面を専用の道具で毛羽立たせる技術。日本では、半世紀前から寝具業界で毛布をつくる技法として確立しました。起毛専業の加工屋として後発スタートした瀧芳さん。大阪・泉大津エリアは、大手布団メーカーのOEM産地として発展し、当時は、地域で工程を分業していました。しかし後発だった瀧芳さんは、産地の常識に縛られず、「いいものをつくる」ために、自社でできる範囲を少しずつ広げていき、とうとう自社製品を開発するに至ります。看板製品となったシルク100%のブランケット。製品そのものが営業マンとなり、世界のメゾンからも注目、服地に採用された実績もあります。職人の強い意思とこだわりによって生み出される製品の魅力をお聞きします。

吉村:
はじめに、起毛という技術について教えてください。
梶原:
生地の表面の繊維の毛羽を出す処理のことを起毛と呼びます。あざみや針布を巻いたローラーを回転させて、その上に布を走らせて生地の表面の糸から繊維を引っかきだします。生地の厚みを増すと共に保温力を増加させ、柔軟な肌触りが得られる加工技術です。
非常に古くから行われていた加工で、ポンペイ遺跡の壁画の中にもハンドガード状のもので織物の表面を引っかいている光景が見られるそうです。その後、1684年に欧州で植物の「あざみ」を利用した起毛機が最初に作られました。延べられた織物に一方向にあざみで引っ掻いて毛羽をかきだし、その後に再び反対の方向に引っかいて毛羽を起こしていました。1855年にパリの万国博覧会では針布ロールを取り付けた起毛機が出品され、1872年に英国ではあざみ起毛機に代わる5本ロールの針金起毛機が開発されています。1894年に大阪の織物会社に英国製の起毛機が設置され、その後、和歌山から国産の起毛機の生産が始まり発展しました。
吉村:
泉大津は寝具の産地として発展したそうですが、その産地での瀧芳さんのポジションはどのようなものだったのでしょうか。
瀧芳:
毛布業界としては、後発でスタートしました。そのため、いろいろ自分たちの思うようにやって、自社で販売したり、顧客に提案したり試行錯誤しました。自社商品についても、当初、小売をしよう決めてスタートしたわけではなく、染めた糸を織っていたところを、染めもパートナーさんでできるね、仕上げもこことやろうと、どんどん地域のほかの加工先さんを巻き込んでどんどんできる範囲を広げていきました。

梶原:
瀧芳さんの起毛は、とても肉厚でしなやかなでフワフワの感触です。今日、改めて生産の流れを見させていただき、何度も起毛とシャーリングと洗い工程を繰り返し表情の出方を微調整している事を知りました。また、お話を伺い、生機のクオリティが非常に影響する事を知りました。糸の原料、撚糸から織組織までも熟考されており、この研究、知識の積み重ねに瀧芳さんのスペシャルな風合いの強みがあると思いました。
いいものをつくりたい思いを貫き通す
瀧芳:
もともとは他社と同じように、生地を預かって起毛の加工をして、次の工程に渡すという仕事が大半でした。あるとき、預かった生地を起毛をしたところ、ぜんぜんよく起毛ができなくて。生地が悪いと起毛もうまくいかない、なんで生地が悪いのか…原料をケチっているからだ、ということがだんだんにわかってきました。親父である社長は、職人上がりの人です。なので、いいものをつくりたいという意思が強く、徐々に生地を自分たちでつくるようになり、材料の選定も自分たちでやるようになりました。たまたま、シルク糸専門の商社である京都の、松村さんとご縁があって、自分たちで糸の手配・生地づくりからやってみることにしました。そしたら、他社さんが持ち込んだ生地に起毛したものより、ずっといいものができてしまったのです。
吉村:
シルク100%になったのもこだわりの結果なんですね。
瀧芳:
他社も、うちの真似をして、シルク起毛を出したところもありました。でもシルクという表面的なことは真似できても、根本的には他社が追随できなかったようです。
梶原:
シルクの原料は高価であり、開発していくには覚悟もいると思います。仕入先も限られており、現在は誰でもがいい原料を仕入れられる市場ではないですよね。
瀧芳:
「安い原料でやれば、もっと安いものができたくさん売れるよ」と言ってきたところもありますが、そんな安い原料でつくっても面白くない。買ってもらったとして誰かにプレゼントしてうれしいか?と、初代社長はやろうとしませんでした。営業畑ではなく、作る側の人なので、ただシルクというだけで安い素材をつかって作ることは、全く眼中にありませんでした。

吉村:
圧倒的に良いものというのは、値段を意識させないんですね。
一枚一枚の製品が営業マン
瀧芳:
むしろ、よそさんで、「瀧芳のはいいのにお前のところのはなぜあかんのか」と問屋さんから言われた、なんて話もききました。一定以下の原料には全く手をつけなかったことも幸いし、『瀧芳のブランケットは品質がいい』というイメージができあがり、一枚一枚の製品が営業マンとなり評判になっていきました。そのうち、シルク自体が高くなり、他社は手を引きだし、うちが残りました。
梶原:
私が瀧芳さんの生地に出会ったのも、大阪の商社さんから是非一度見ておいたほうがいいよ、とご紹介を受けてです。当時から評判になっていました。高密度なのに、軽く感じる。当時は服地としてみていたので、この軽さはとても魅力的に感じました。見た目とギャップを感じる軽さも、近年の商品開発の中では重きをおかれていますから。

瀧芳:
そうですね、自社製品を始めたころはもっと分厚かったですが、今の時代、年配の人が多くなって重いものは嫌がられます。マンションでは、昔に比べて、家の中は冬でも比較的暖かいといったところから、私たちが手がけるものも薄くなっていきました。生地を薄く軽くしようと思ったら、悪い素材はますます使えません。重複した工程に耐えられる繊維の長い原料をちゃんと選定する必要があります。いい原料があって、薄く仕上がるような生地の組織の設計、起毛しやすい組織、起毛が一番しやすい生地の硬さ、ほどよい水分を含んでいるか、いないかの状態で乾かすプロセス、と全て微妙な調整を重ねて、ベストな状態の起毛ができます。全てにおいて、手は抜けませんね。
梶原:
今の時代でこそ、下請けメーカーさんが自社製品をつくり市場投下するというのが当たり前になったが、その先駆けとして独力で継続して実行してきたことが、すごいところです。
技術革新と追求を怠らず、市場のフィードバックも柔軟に受けながらよりレベルアップされていきますね。
吉村:
さわり心地、軽さももちろんのこと、上質感を味わえます。工房の機械自体は、最新のものではなくむしろ年季が入ったものが多いのがとても印象的で、熟練の職人たちが、全ての工程において微妙な調整をし、最後の起毛機に生地を掛ける最高の状態を作り出しているのが日本の職人技だと実感しました。
次回は、山梨・富士吉田でつくられる天然素材の極細糸のテキスタイル誕生のストーリーです。
パートナー対談 Vol.7

世界を魅了するジャパンメイドテキスタイル
梶原加奈子(テキスタイルデザイナー)×吉村優(Kiwakotoディレクター)
ここ数年、日本の各織物工房が世界の展示会に出展し、トップメゾン相手にプレゼンテーションをしているのはご存知でしょうか。メイドインジャパンでないとこだわりの強いメゾンは採用しない、とも言われるほど、日本のテキスタイルは世界のデザイナーたちから支持を得ています。Kiwakotoのテキスタイル関連の商品開発に携わる梶原デザイナーは、自身のライフワークとして、日本のテキスタイルをセレクトし、海外メゾンに提案する活動を続けていらっしゃいます。
今回、連載4回でお届けする『パートナー対談~ジャパンメイド・テキスタイル~』
テキスタイルデザイナー梶原加奈子氏とKiwakotoディレクター吉村が、日本を代表する技術をもつ工房のお話を伺い、こだわりを貫き成長していったストーリーを掘り下げます。

吉村:
テキスタイルに関するグローバルイベントは年間どれくらいありますか。
梶原:
ファッションマーケットに関しては、パリ、ミラノ、NY、上海などで6ヶ月に1回の展示会が開催されています。インテリアマーケットに関しては、ドイツ、イタリア、NY、トルコ、上海などで1年に1回の展示会が開催されています。
吉村:
世界、特にトップメゾンは、テキスタイルになにを求めているのでしょうか?
梶原:
トップメゾンが表現したい方向性を形にするためのテキスタイルデザインを求めています。それぞれのメゾンの世界観を理解した上での提案が大事ですが、それだけではなく、一歩先の社会の変化を捉えた新しいコンセプト、デザインも必要としています。その他、グローバル視点で常に刺激を求めています。オリジナリティがあるテキスタイルの最新情報や技術革新について敏感だと思います。
テキスタイルの可能性を追求する日本の技術
吉村:
ジャパンメイドの評価はどんなところにあるのでしょうか。なにに価値を感じるのでしょう。
梶原:
まず第一に、技術力です。世界でトップレベルと認められる技術が日本にあります。日本の和装文化や伝統工芸から発展した日本にしか存在しない技術や、独自性がある糸、織、編、加工までの工程の組み合わせ、繊細で高品質な仕上がりを追求する開発力に高評価が集まっています。テキスタイルの限界を追求し、世界一薄い生地を作れるのも日本の工場です。また、海外からは特に複雑な風合いを表現できる後加工の技術が注目されています。
第二に、精神性です。特に侘び寂びの文化や茶道、華道、剣道などの伝統から伝わる日本人の質素で控えめで芯が強い精神に憧れを感じられているように思います。その中でも特に、藍染や刺し子といった昔ながらの野良着の質感や色に人気が続いています。
第三に、生産管理能力です。日本は誠実で実直な対応ができる可能性が高く、ビジネスの上での信頼性が評価されています。Made in Japanは高品質であるという高付加価値のイメージを持っていると思います。

吉村:
梶原さん自身では、各産地のテキスタイルをセレクトし、トップメゾンに提案する活動を続けていますが、取り組もうと思われたきっかけはどういったところにありますか?
梶原:
イギリスに留学していた時に経験した日本への想い、テキスタイル産業への想いが大きく影響しています。
海外で表現の仕事をしていく中で、自分が育った環境、民族、文化、思想を常に問われました。その過程で日本の歴史や文化の独自性、精神性を改めて見つめ直し、伝統の染織には色や形に込められたメッセージ性や風習に沿った決まりや意味がある事などを改めて学びました。
海外では日本文化に興味を持っている人が多いことにも、海外に身を置いてから気がつきました。
ですが、現状の日本の伝統は、戦後の洋風スタイルの成長拡大や価格帯が高価である事も含めて時代の変化に対応できていない問題があり、容易に使いこなせないものになってきていると思います。
その上、伝統工芸の産業や和装が低迷していく中で廃業や職人の減少も問題になっています。
また、伝統工芸の技術継承以外にも、日本のテキスタイル産業は2000年以降、中国などアジアの生産地の急成長の影響で生産量が減少していく流れが強まっています。日本でしか出来ないオンリーワンの開発で生き残りを掛けている産業の戦いが続いていきます。
今後の未来はよりデジタル化し、過去から離れていく可能性がある中で、私たちの世代が伝統を未来に繋いでいく事を意識して努力していくべきだという想いが強く芽生え、海外から帰国して日本の文化やテキスタイル産業継続を目指せるような活動をしたいと思いました。
2006年に帰国してから12年間、産地の現場と向き合い、デザインで未来に向けた提案をリードし、日本の物作りを伝えていく活動を積み重ねてきましたが、道のりは簡単ではないと未だに思います。
多くの中小企業メーカーさんは開発費や経費や営業費用が円滑にある状況ではないため、長期改革プランは立てにくく、絞り込んだ開発と短期で出す結果が必要です。デザイン開発の一方で販路開拓への動きが同時に必要であり、何度も難しい壁を感じましたが、ゴールはないので継続する事を意識して乗り越えていきたいと思っています。
また日本の産地では受注発注の生産量が減ってきており、工場の自社開発と自社販売力が必要になる転換期に、多くの企業は、技術開発が得意だけどデザインには消極的という傾向があります。売れるか確かではないデザインを自社で生み出していく事にストレスがあるようでした。そこで、デザイナーとしての立場は抑え、工場の目線になりマーケティングを生かした色や柄の傾向をわかりやすく説明する事や、生産効率を理解した上での開発を話し合うようにして、工場の方々が不安にならない進め方を意識しています。
その他、工場の高齢化の問題は大きくあり、若者たちが入ってきても長続きしない場面も多く見てきました。
人が少なく安定しない中で、未来の種を植えるような改革の仕事を育てていく事は工場の現場では負担になるため苦しいと思いますが、時代が変化していく中で、若い方々の最初の入口をどう作り、未来を共に考える体制作りがどの産地でも必要だと思います。

吉村:
テキスタイルは、装置産業だとばかり思っていました。機械があり、原料があればできるもの。しかし、さまざまな産地に伺うと、装置があればだれでもできる、ということではないですね。
テキスタイル産業を継続させるのは挑戦する心と忍耐力
梶原:
機械があり原料があれば出来る大量生産型の仕事は、他の国の役割になってきているのかもしれません。
楽に簡単にありきたりな事をやっていては、グローバル価格競争に負けてしまいます。
日本のテキスタイル産業を継続させていくには、挑戦する心、考える力が必要です。
機械も糸作りも素材作りも、それぞれのメーカーさんが独自に考えた工夫をしています。手間暇がかかる工程と向き合い可能にしていくには、強い気持ち、忍耐力を持った人が必要です。このような人を育てる事も物作りの産業を残すためには重要だと思います。
吉村:
京都のテキスタイルはグローバルでどう評価されていますか。いくつか、ブランド化している工房さんもあります。
梶原:
全体の生産量は縮小したとはいえ、日本の和文化は残っており、特に京都はまだまだ和装の占めるウェイトが大きいと思います。
ただ、海外のファッションモードに対しての提案は、グローバルに対応する体制が十分ではない段階だと思います。例えば、和装を主として開発してきた中で小幅の織機を使っている点が洋装の服作りの生地幅の規格と合わず、海外に販売しにくい部分があります。
一方で、毎年必ず京都にリサーチに来るトップメゾンもあり、京都のテキスタイルの可能性は世界から期待されています。
西陣織では、京都の細尾さんがW幅での対応を可能にしており、グローバル化が早かったと思います。
世界との接点が増えることで、情報も入りやすくなり、デザイン性も世界が評価する日本の美を捉えていると思います。
また久山染工さんも手捺染の技術に独特の加工アイデアを加え開発を続けているため、トップメゾンからの評価が集まっています。ここにしかないテキスタイルで且つ、服地やインテリア素材としても使いやすい規格であると認識されれば、グローバルで評価を受けやすいと思います。

吉村:
海外にチャンスがあると気づき、行動力のある各工房の努力で培ってきた日本のテキスタイルの価値。これを未来につなぐためには今、何が必要だと思いますか。
梶原:
関わる方々の想いで未来に繋ぐ努力をしていけるかが根幹にあると思いますが、想いだけではなく、現実的に実行できるかどうかが重要だと思います。
第一に、グローバルマーケットとターゲットブランドの求める方向性を学ぶ事が必要だと思います。時代が求める色、柄、風合いを知り、トップメゾンが欲しいと思うデザイン性を提案していけるかが勝負になると思います。
第二に、タイミング良く見せて、スピーディーに生産できるかどうかだと思います。プレゼンテーションの期間があるので、そこで紹介できるかがとても重要な事です。またオーダーを受けてからグローバル基準で的確に生産できるかどうかです。素早い展開のファッションでは、時間が勝負です。短納期は常に求められます。
第三に、テキスタイル販売だけではなく製品販売をするか考える事も必要です。機械設備として、どうしても小幅を生かした生産しか出来ない工場や手作業もあり生産納期がかかる技法のテキスタイルを素早く展開するテキスタイル販売で展開していく事に限界があるかもしれません。その中で、オリジナル技術を生かした製品をグローバルに販売するラインを開拓する事も一つの手段だと思います。
次回は、大阪・泉大津でつくられる最高峰のシルク起毛の魅力です。
パートナー対談 Vol.6

「可視化された空力」が生まれた理由
西川淳(モータージャーナリスト)×宮部修平(NEGRONIディレクター)×吉村優(Kiwakotoディレクター)
KiwakotoとNEGRONI初めてのコラボレーションを記念し、Kiwakotoディレクター吉村とNEGRONIディレクター宮部修平氏、そして仲人をしてくれたモータージャーナリストの西川淳氏によるトークイベントを催しました。その一部分、開発ストーリーをお届けいたします。

宮部:
実は、今回のコラボレーションに際して、京都の数千年の歴史の上に成り立っている「なにか」を取り入れて商品をつくるにあたり、自分の中で「これでなくてはダメ」というものを見出した上でスタートを切りたかったのです。
京都に来た初日、ディレクターの吉村さんと、さまざまな「素材」を見に行きましたが、その時点ではあまりピンと来るものがなくて。すばらしい素材や模様はたくさんあったのですが、そのままドライビングシューズとしてぱっと商品に取り入れるのには違和感がありました。「なぜ、ドライビングシューズに用いるのか」が自分の中では見出せなかったのです。そんなこともあり急遽、薗部染工さんの工房を見せていただくお願いをしました。

墨流しは、顔料を水に垂らして線を描くように柄を描くのですが、最もカルチャーショックだったのが反物を水面に付けて、外すまでのスピードと息の合った作業です。自分の想定ではじっくりと水に浸して、色が定着するまで待つといった勝手なイメージをしていたので。その動きを見ているときに、ある種、カメラのシャッターを切る瞬間のようだなと感じました。
一瞬の動きで、水面の模様を写し取る様を見ている間に、流体力学の実験を思い起こしました。流体つまり、水や空気の流れには法則があり、「一回どこかに入ったら必ず出なくてはならない」というルールで動いています。その一瞬の流れは通常、目視では認識できず写真として記録することで、可視化されます。墨流しの作業プロセスは、流体の動きを最も写真に近い形で切り取ることができるものだ、と思ったとき、今回のコラボレーションのテーマが生まれました。
吉村:
宮部さんが、「流体を表現したいです」、とおっしゃりクルマの風洞実験で用いられるエアロダイナミクスの絵を見せていただいたときやっと、私も表現したいものの共通認識がもてました。クルマのボディデザインもこの流体力学からエアロマネジメントを行い空気抵抗をコントロールしているそうです。その空気の流れる様と、墨流しの水の流れを写し取る様がシンクロした瞬間でした。
この切り取るというのは、Kiwakotoにとっても刺激的なアイディアでした。私たちは初めて墨流しに出会ったとき、「どんどん変化していく水面の模様の美しさ」に魅了されてなんとかこのプロセスを伝えたいと思ってプロダクト開発をしていました。宮部さんはその中でも、「一瞬で切り取る」という点に着目していただけた。その視点は私たちの中になかったので、驚きましたし、コラボレーションの醍醐味だと思いました。

西川:
実は、昨年(2018年)KYOTOGRAPHIEでKiwakotoに初めて出会いました。ブルーの墨流しがとても気に入ってトートバッグを購入したのですが、その際も、何個もバッグを並べて、びっくりしましたよ。本当にひとつずつ別モノ! 白が多い少ない、柄の流れが戻ってきているとことがある、ブルーの色合い・・・無二とはこのことだな、と選ぶのが楽しかったです。
吉村:
西川さんには、ブランド立上げ当初からいろいろ応援していただき感謝しています。今回のコラボレーションも西川さんなしでは実現しなかった。お忙しい宮部さんとなかなか接点が持てなくて諦めていたところ、西川さんがネグローニのご愛用者だと知り、ご相談したところすぐにつないでいただけて。
宮部さんのことも、私のことも知っていただいていたから、早かったですよね。

宮部:
僕もいろいろなコラボレーションをしていますが、やはりスタートの時点でお互いが納得できるものがないと、どこかで不具合が出てくる。今回は最初に、水や空気の流れ、流体力学、一瞬を切り取るというキーワードが出てきて「可視化された空力」というテーマを見出せたこともあり、あとはいかに、商品に表現するかという観点でつくりこみができました。
実際は、この革はドライビングシューズに仕上げていくのが異様に大変で。不規則な柄を用いながら、シューズの正面から後ろにかけて流線が抜けていく様を表すのに、パーツ取りの工程は最も苦労します。結局人には任せることができず、全て自分でパーツ取りは行いました。
西川:
ベントレーやロールスロイスのウッドパネルと似ていますね。職人たちが、木材の持つ本来の美しさである木目を生かした塗装で仕上げ、さらにその柄をそろえていく。ランボルギーニやマクラーレン、ブガッティが提供するフルカーボンボディはセンターを軸に左右対称になるように織柄を合わせていく。職人のこだわりというか狂気に近いですよね。
ちなみに、宮部さんとしては、どうなっているのが今回のシューズでいうとベストな状態?
宮部:
前述のように、シューズのフォルムに沿って後ろに抜ける流れが見えるということ、また、流れているだけでは退屈でたまに渦があったり島のような模様がポツンと出たり、そういう遊びが発見できるとうれしいですね。
吉村:
何回も革を染めていただいていると、これは柄といっていいのか、染め損じとしたほうがいいのか・・・とても悩ましいところもありますが、お二人がおっしゃっていただいているように、「自分としてのお気に入り」を見出すことができるのが、この素材の魅力だと考えています。よく、宮部さんも、「なかなか(恐れ多くて)自分ひとりで京都の伝統工芸の門をたたいてみようとは思わない」とおっしゃいますが、一方で、数千年・数百年と繋いできた技術・表現をどう捉えて再編するか、というのはこれまでとは異なる目、切り口がいる場合も多くあります。Kiwakoto自身や、今回のように色んな領域のプロフェショナルにかかわっていただくことで、より意味深いコラボレーションが生まれるはず。この一回に終わらず、また新たな切り口で一緒に商品開発をしていきたいですね!
プロフィール
西川淳 モータージャーナリスト
1965年 奈良県生まれ。京都大学工学部卒業。(株)リクルート・カーセンサー副編集長を経て、99年に独立し編集プロダクションを設立。フリーランスとして雑誌、新聞、ネットメディアに多数寄稿する。専門はラグジュアリィカー、ヴィンテージカー、スーパースポーツ。自動車の歴史と文化を語りつつ、産業と文明を批評する。
宮部修平 NEGRONIディレクター
1984年 東京生まれ。雑誌編集の現場を経て、25歳で実家が経営する製靴会社マルミツに入社。靴のデザイン、製作に関わり始める。ブランドディレクターに就任した2015年以降、英国で開催されるモータースポーツの祭典“GOODWOOD FESTIVAL OF SPEED”、“ GOODWOOD REVIVAL”に毎年出店し、各国の自動車メーカー、愛好家から圧倒的な支持を得る。
吉村優 Kiwakotoディレクター
経営コンサル、新規サービスの立ち上げ等を経験。京都出身ながら学生時代に沖縄の方から京都の伝統工芸のすばらしさを教えられ衝撃を受けたことから、いつか職人や伝統工芸に関わるビジネスをしたいと考えKiwakotoブランドの立上げに至る。
パートナー対談 Vol.5

デザインが引き出す伝統工芸の「価値」
みやけかずしげ(プロダクトデザイナー)×吉村(Kiwakotoディレクター)

Kiwakotoが初めてリリースした「ラグジュアリーなカーライフ」を提案する商品を、ゼロから共に考えてきたみやけかずしげデザイナー。カーライフの中で何が求められているか、その中で伝統工芸をいかに表現するか、何度も工房に行き試作を繰り返し、リリースに至りました。デザインが伝統工芸にどう関わっていくか、お話を伺います。
吉村:
カーライフと伝統工芸と最初聞かれたとき、どのように思われましたか。
三宅:
どちらも転換期にある業界、自動車は動力やAIによって大きく変わりつつありますし、伝統工芸も世の中から求められるものが変わり産業の構造自体も変わりつつあります。それらが、掛け合わさると面白いことになるのではないかと思いました。
吉村:
確かに、どちらもライフスタイルの変化と技術の発展によって、今後これまでよりも早いスピードで変化していくことが求められる産業といえますね。伝統工芸を生かした商品開発において、特に気にかけていらっしゃることはありますか。
三宅:
「価値をどう表現するか」ということです。過去、伝統工芸は日常に根付いた品でした。現在は、その多くが贅沢品に変わってしまったように思います。そのような状況において今の時代の伝統工芸とは何か、それによってどのような価値を表現するべきかを、作る側ではなく「買う・使う側」の目線で考えるようにしています。

吉村:
手がけられている無印良品や±0の家電領域と、伝統工芸とは、全くデザインのアプローチが異なるように感じますが。
三宅:
電化製品のような量産品でも伝統工芸でも、製造の方法が違うのは事実ですが、デザインの軸として「ものの価値をお客様に伝える」という観点では同じです。これだけ、いろんな情報や技術がある中で、伝統工芸という表面の情報ではなく、そのものの持つ真の価値を掘り下げ形にするのがデザインだと考えています。
吉村:
デザインを考える軸や、掘り下げるプロセスは、工業製品も伝統工芸も同じなんですね。
三宅:
そうですね。伝統工芸の業界が変わりつつあり、表面的な技術力や美しさだけではなく、「価値」は何かを追求し、デザインすることが必要不可欠になってきました。そのためにデザイナーが関わる機会が増えたのだと思います。
吉村:
他産業からみたときに、伝統産業の抱える課題はありますか?
三宅:
先ほども言いましたが、工業製品と伝統工芸では製造方法が違います。手で作られるものが多い伝統工芸では、手作りの価値をどう伝えるかが問われてきます。単純に機能が良いとか使いやすいということではなく、美しさや手作りならではの価値を加えて伝えることが必要ですし、そのような手作りの、どこか人間味のある温かみのある価値を提供できることが魅力です。しかし同時に製造の工程が一貫していないことが多く、工程ごとに作り手が分かれていることが物作りを複雑にしています。ものづくりに関わる全ての作り手の意思が統一できなければ良い商品は作れませんので、その意思統一をより密に行うことが重要だと考えています。

吉村:
今の時代、求められる「デザイン」とは、どんなものでしょうか。
三宅:
ものの価値が明確に伝えられるデザインが求められていると考えています。作り手側の思いだけを実践した商品ではなく、買う・使う側として今何を求めているかを十分に理解し、それと作り手の商品が持つ価値を繋げることがデザインのすべきことであると考えています。
吉村:
ショールームに並んでいる、完成した商品をご覧になっていかがですか?
三宅:
ショールームは商品が一堂に会してお客さんとの接点が生まれる場所です。作って終わりではなく、お客様の声を今後の商品にも反映していきたいですね。
吉村:
三宅さんがイメージする「ラグジュアリーなカーライフ」を教えてください。
三宅:
高価な車に乗るということももちろんですが、自分の気持ちが少し高ぶるような、少し違った空間になる、少し特別な気持ちになる、ということもラグジュアリーの一種であると考えています。 何か気に入ったものをいつもの車に備えることで、車内空間の雰囲気が少し変わり、気分が高ぶる…とても贅沢なひと時だと思います。人の感覚は時代と共に少しずつに移り変わります。「ラグジュアリー」もその時代によって求められることは移り変わりますよね。
吉村:
伝統工芸も、今では古典的なイメージがありますが、かつては時代を先取っていたものであったはずですよね。その時代に合わせて、どう変化し、価値を届け続けるかが、ラグジュアリーなライフスタイルを体現するブランドとして重要ですね。今日はありがとうございました。
パートナー対談 Vol.4

伝承の上に、少しずつ「個性」をのせていく
佐々木虚室(帰来窯 窯主)×吉村優(Kiwakotoディレクター)
佐々木虚室
楽焼 帰来窯 窯主
1996年 帰来窯を先代から受け継ぎ、当主となる。110年続く窯元で、楽焼の継承に力を注いでいる。

吉村:
帰来窯さんの工房は、風情があり空間そのものも魅力的です。カエルや雲雀の鳴き声が聞こえる中で、作陶ができる環境は京都でも珍しいですよね。
佐々木:
ありがとうございます。40年前、前代がここに拠点を開いた際に、未来を想像して整えてくれたのだと感じます。そのとき苗木だったもみじの木も、今では見事な紅葉風景をおりなしています。
現在、私は、茶碗以外にも、楽焼の可能性を広げようと、タペストリーなどインテリアに用いることのできる陶板製作も手がけています。楽焼の技法を用いて、板状に焼き上げるのは非常に難しい技術です。これも、当窯が110年培ってきた技術の伝承があったから積み上げることができた「個性」です。京都の企業は100年経って一人前という話は有名ですが、ただ古いことに価値があるのではなく、時代の中で積み上げてきたものがあるからこそ、他にない文化や技術が脈々と受け継がれていくのだと実感します。
ものがいいのは当たり前。ものと共に、語ることのできるストーリーを大切にしたい。
吉村:
千利休が考案してから楽焼の歴史は400年余り。その魅力とはなんでしょうか。
佐々木:
最大の魅力は、「千利休の茶の湯を表現する」という目的が先にあって楽焼が発展してきたということです。他の焼き物は、産地産業で、いい土が取れたから焼き物がつくられるようになり、壷を作ったり、皿を作ったりして発展してきました。
楽焼は、最初からストーリーがあり、茶の湯の精神を形として体現したものといえるのです。
例えば、楽焼では、手づくねといって、手のひらの中で成型する技法を用います。敢えて後進的な作り方に利休がこだわったのも、当時、朝鮮陶工らが伝えた轆轤が国内で広まり、急速に、焼き物が機械化されていく時代であったことを考えると、何らかのメッセージを感じます。
未来に向けて取り組みたいことは、楽焼の文化を根付かせる足がかりを作っていくこと
吉村:
佐々木さんは、海外の方々や若い世代の方々へ楽焼文化を熱心にお伝えされているそうですね。
佐々木:
はい。私は、技術だけではなくて、楽焼の文化的背景も未来に残したいと考えています。
ところで、「わびさび」の言葉の意味は説明できますか?
吉村:
・・・正確には説明できないですね。贅沢をしない、必要最小限、というイメージです。
佐々木:
よく使われる言葉ではあるのですが、説明できる方は少ないですよね。
あくまでも私の解釈ですが、「わび」と「さび」という言葉を一言で表すと
「わび」は、不足の美
「さび」は、経年による美しさ
と、捉えています。
不足の美しさを表現することで、見る者に何かを想像させる。朽ち果てていく中にも美しさを見出す。そんな日本的な美の概念を、楽焼と共に、絶やさず、人々の記憶の中に根付かせたいと強く思っています。
文化をつくるのは時間がかかります。私が足がかりとなり、その芽を残す。それを受け取った次の世代がまた少し前進させる。ちょっとずつ変化を続け、文化をつくりつづけたいと考えています。
パートナー対談 Vol.3

創造の心
薗部 正典(薗部染工 代表作家)×吉村優(Kiwakotoディレクター)
薗部 正典
薗部染工 代表作家
1970年に独立し、墨流し染めを友禅染めの技法として確立。アパレル素材やレザーに展開している。2017年 黄綬褒章授与。

今回対談させていただく、薗部正典さんは、墨流し染めを京友禅の技法として確立させた業界の重鎮。80歳になる今も、お弟子さん達と共に現場に立ち、墨流しによる新たな表現に挑戦し続けています。和装にとどまらず、アパレル、ファッションに用いられる様々な素材に取り組み、手仕事の可能性を広げています。日本の伝統の中にある美意識の継承と時代に合わせた革新を体現している薗部さん。人生の大先輩として、その姿勢をリスペクトします。
吉村:
いつも、ありがとうございます。革や綿、シルクなど、いろいろと染めていただいて、墨流しを表現できる素材の幅広さに驚いています。こんなにいろんな素材に展開しているのは狙っていたところですか。
薗部:
いや、狙ったということではないのですが、必然的に広がりましたね。常に、「人に真似されないようなものをつくろう」ということを考えてきて、やってるうちにね。真似されてつくられたものが良いものだったら、自分ではもう止めて、次のものに挑戦するんです。その繰り返しですね。
吉村:
止めて次のもの、ってなかなかできそうで腰が重いですよね。
薗部:
例えば、和装業界ではインクジェットの技術が発展し、産業革命のごとく、多くの職人の仕事を奪っているとずいぶん昔から言われていますが、私はそうは思いません。
インクジェットは、手仕事では全く歯が立たない程、たくさん作ることができて出来栄えも、見方によっては、いい。中には、手仕事かインクジェットかわからないようなものまであります。ただ、職人は、それに嘆いていてはいけない。インクジェットという技術は受け入れ、じゃあ、職人にしかできないものは何か、あるいは最新技術と職人技を組み合わせてなにができるかという発想でいかなくてはいけないと思います。
吉村:
墨流しは、インクジェットではできないものの一つ、ですか?
薗部:
いや、私どもの墨流しだって、柄をデータに読み込んでしまえば、インクジェットでも同じ柄はできてしまいます。しかし、墨流しの価値は「一点ずつ違う、二度と同じものはできない」ということで、そこに魅力を感じていただいている方がいらっしゃる。昔、墨流しでTシャツを作りたいというところがあって、3,000メートルは発注するので、あとはインクジェットでやらせてほしいと言われました。勿論、断りましたが。私が思う、墨流しの本来の価値ではないですからね。

吉村:
新しいことに挑戦する、秘訣みたいなものはありますか。
薗部:
新しいことをやるには、なかなか一人では進みませんね。人との出会いがすごく大切です。
吉村:
墨流しにも出会いがありましたか?
薗部:
ありがたい出会いがたくさんありました。なかでも、すごく大きな影響を与えてくださった方が2人います。革素材に挑戦するきっかけになったのが、革の問屋さんが飛び込みでうちの工房にいらっしゃって、当時は、絹や綿しか染めていなかったのですが、一瞬で生地が柄を吸い取る様子にえらく感動されて、取引先の靴メーカーに提案したいと熱心におっしゃられるので、やってみることにしました。試しに一回染めてみたら、綺麗に染まってね。ただ、本番の大きな一枚革で染めようとしたら、不具合がでたり、いろいろ試行錯誤を一緒にしていただきました。
吉村:
もう1人は?
薗部:
染料メーカーの方です。私の修行時代は、マドレー染めといって、硬い糊の上で柄を作っていたのですが、そうすると道具が糊でベトベトになって、洗うのがとても大変だったんですね。早く仕事を終わらせたくて、こんな糊を使わずにできないものか、と考えたのが、今のように、ほとんど水のような水面の上で絵柄を書くやり方でした。染料メーカーさんにご相談して、水の上でも溶けない、色同士が混ざらない染料を一生懸命開発していただきました。仕事が終わる時間も早くなりましたしね、とても感謝しています。
吉村:
薗部さんの挑戦力が、人を引き寄せているような感じがしますね。お弟子さんたちも、いつも熱心に作業をされていて、私たちのいろんな要望にもめげずにやっていただいてありがたいです。
薗部:
うちの若い子たちには、いつも、仕事は一人でできないから感謝せなあかん、と言ってます。社訓にも「創造の心、挑戦、感謝」と掲げ、毎朝、みんなで唱えています。
吉村:
修行時代、美しさを表現するための技術を学ぶ一つの方法として、花を描くそうですね。
薗部:
そうなんです。手書きの職人は、美しさをバランスで表現します。花が大中小とあってどういう風に描くとより綺麗なのかということを学びます。
吉村:
あ、生け花と近いですか?
薗部:
花の世界では「天地人」と言うそうです。天が最も高い位置、地は最も低い位置、人はその中間の位置。私どもも、絶えずバランスを考えて、配色や柄向きなどを読んでいく。マルばっかりではおもしろくない。サンカクやシカクがあって変化があって面白くなるという考え方です。よく、師匠には、「同じ柄がつまっていると味がない」といわれましたよ。
墨流しでも、一見、均一になるように柄を描きますが、全体の見え方のバランスを考えて細かく変化をつけるように手を入れていきます。
吉村:
あの素早い作業の中で、バランスを見ながら描いていらっしゃったんですね。私自身、水面で絵柄がどんどん変化していく様子がすごく魅力的で、いろんな方にその工程をみていただきたいと思っています。平安貴族が、川に墨を流してその変化を楽しんでいたことが起源とお聞きして、ゆったりとした時間の流れを楽しむ様を感じました。それが今の時代に、美しい表現をする技術として受け継がれている。薗部さんたち職人さんのお陰ですね。
薗部:
もう一旗揚げようと、思ってやってますよ。若い方がこうして熱心にうちに来てくれることを思うと、もっとがんばんなきゃってね。共に、いいもんを作りましょう!
パートナー対談 Vol.2

古くから残ってきたものに「美」を学ぶ
吉羽政人(三代目吉羽與兵衛)×吉村(Kiwakotoディレクター)
吉羽政人
京釜(茶釜製作)株式会社吉羽與兵衛 代表取締役社長
千家十職の釜師から別家を許され、與兵衛の号で独立して三代目。伝統の京釜作りを守り続けています。

今回対談させていただく、吉羽政人さんは、江戸時代の茶釜の修理を受けられていると思いきや、鋳造の技術を応用しワインホルダーを作るなど、伝統を受け継ぎつつも挑戦を日々されています。
打合せのため工房に伺うと、茶を点ててもてなしていただき、鉄を鍛える「カン、カン、カン」というリズミカルな音と共に、安らぎの時間を過ごさせていただいています。初代吉羽與兵衛・政人さんのおじい様は、丁稚奉公として千家十職の釜師・大西家に入り、実力を見出されて別家・独立されたという経歴の人物。千家十職とは、茶道に関わり三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)に出入りする塗り師・指物師など、千家好みの茶道具を作ることのできる限られた職人たちのこと。そんな大西家から独立をするということは、確立された世界から一歩外に出て、ベンチャー精神で常に新しいこと、他とは違うことを追求する宿命を背負ったということなのかもしれません。そのおじい様の精神を受け継ぐ、政人さんと改めて「茶釜という道具とは何か」について、話す中で、職人としての思いや考え方が垣間見えました。
吉村:
今日はありがとうございます。野点セット、ようやく完成しましたね。茶釜の入ったポータブルなお茶のセット、というコンセプトから、茶釜の形状を作り出すのに非常にご苦労をかけたと思います。
吉羽:
約一年かかりましたかね。実は兼ねてから、もっと気軽な茶釜はできないか、と自分の頭の中にあったものですから、今回このような形で一緒に作ることができ、とても満足しています。
吉村:
茶釜の雰囲気を残しつつ、現代にもフィットする「形」について打合せしている際、吉羽さんは真っ先に、昔の茶道具の資料を持ってこられました。千利休やそのお弟子さんたちの多くの作品が掲載されていたものです。三宅デザイナーやスタッフもそれを見て、議論がぐっと深まったのが印象深かったのですが、何故、あの資料を持ち出されたのですか?
吉羽:
長く時代を超えて残ってきたものって、誰かが「すばらしい、残したい」と思ったからこそ、大事にされ受け継がれてきたと感じます。すなわち、淘汰され、それでも残り続けてきた、普遍的な美しさがあるのだと。
吉村:
確かに・・・。作られた後、いろいろなものが出てきても、残り続けたということですよね。
吉羽:
たとえば、縄文土器の火焔型土器なんて、よくあんな形状を当時の人々が思い至ったな、と感銘を受けます。この発想力は不思議でなりませんし、自然と見入ってしまいます。古いものにこそ、時代を超えて人が美しいと思う何かがそこにある、と捕らえ、いつも勉強させてもらっています。

吉村:
今回の茶釜は茶釜らしい形状と美しさを残すために、千利休のお孫さん・千宗旦が手掛けた「四方口釜(よほうぐちがま)」をヒントに丸と四角を組み合わせた形に至りました。私も、今回初めて知ったのですが、元来、茶釜は大きいほうが好まれていたそうですね?
吉羽:
昔は、男性しか茶道はできなかったので、茶釜は特に男らしさを表すような道具でした。お茶を恭しくいただく、大きく存在感のある道具なのです。野点ということで、小さく形を変えましたが、特徴的な形状によって、存在感を強調できましたね。
道具は思考を表現するもの
吉村:
茶釜やその他の茶道具、私もそうですが馴染みのない方のほうが多くなっていますよね。茶道の作法は何のためにあるのかなと、ふと思うときもあります。
吉羽:
中国から日本にお茶が入ってきた時代は、お茶は薬草で、非常に高価なものだったそうです。貴重なものだから大切にする。特別なときに、特別なルールに則っていただく。そんな姿勢から、道具や作法が発展していったのだと思います。お茶の葉を運ぶ際も、茶壷に入れ封印をして、籠で運んでいました。高貴な位の方の部屋、書院造をイメージしていただければ、広く重厚感のあるつくりですよね。そこで、仰々しくお茶をいただくのですから、必然的に、存在感のある茶釜が好まれていったのです。今の時代に置き換えれば、高価なワインをいただく際はデキャンタに移し専用のグラスで、それにはお洒落をして美味しいレストランでゆっくりと…といったのと似ていますかね。
吉村:
セレモニーなんですね。
吉羽:
そうですね。お茶会などは、亭主が何か月もかけて道具を選び、お出しするお菓子や料理、器を吟味し、客は亭主の意をくみ、何を着ていこうかと思案する。その時点でお互いにお茶会を楽しんでいますよね。作法をきっちり守ることに重きを置くのだけではなく、なんでこういうルールができたのか意味を理解しながらゆっくりとした時間を楽しんでみても面白いと思います。そんな体験を提供する道具を作り続けていきたいです。
吉村:
なんでも手軽に楽しめるようになりましたが、わざわざ道具を揃え、ふさわしい格好をして時を過ごす、というのは非常に贅沢なことですよね。吉羽さん、今度は茶会も企画しましょう!今日は貴重なお時間、ありがとうございました。
パートナー対談 Vol.1

職人(artisan)の技を磨くために、作家(artist)としての自己探求がある
加藤丈尋(丈夫窯当主)×吉村(Kiwakotoディレクター)
加藤丈尋
京焼・清水焼 株式会社丈夫窯 当主
職人として仕事をしながら、作家としても様々な展覧会に出品。釉薬の研究による色の表現を得意とする。

吉村:
今日はお時間をいただきありがとうございます。早速ですが、一番聞いてみたかった質問をさせてください。
加藤さんは、職人ですか?作家ですか?日々、多くの作り手さんとやり取りをする中で、伝統工芸の世界では、「作家と職人との境目」が曖昧だと感じています。加藤さんも、作家として日展に作品を出す一方で、料理屋で使う食器や、我々との商品開発も手掛けられていらっしゃいます。
加藤:
どっちも、でしょうね。「工芸」という言葉は、英語で同じ概念をもつ単語がなく、最近では「KOGEI」と表記するくらい、日本独特の概念と言われています。
私自身は、職人としての仕事はお客様の要望に応えることと考えてます。単に言われたものをつくるということではなく、もっとこうしたほうがいい、という提案も含めてです。
作家としての活動は、自分自身の表現を突き詰めるもの。私にしかできない表現を実験する活動ともいえます。
自己探求の中で突き詰めた技術や偶然発見した表現方法が、職人としての仕事にもフィードバックされ、お客様が求める以上のものを作ることができる、と。なので、職人と作家を行ったり来たりしているイメージです。
日展に出るのも、一流の人たちと自分の作品が並ぶという意識を持ち続けること、そして、作品を見たら名前を見なくても、丈夫窯の作品だと分かるようなオリジナリティを磨くためです。
ストーリーを語れる喜びを届けたい
吉村:
職人として商品を手掛けられているときは、どんな思いでつくられていますか?
加藤:
茶会で使われる茶器や、晩餐会で使われる前菜のお皿など、特別なときに使われるものを手掛けることが多いのですが、器を紹介する方が、「この器は今日のために、こんな思いでつくった」「ここにこだわっている」など、ストーリーを語れることがとても大切だと考えています。
そのメッセージを受け取った方も、「この会のために、特別なんだ」と、とてもうれしい気持ちになりますよね。細部に宿る相手への気遣いを形にして届けることができるのが、器だと思っています。
吉村:
確かに。特別な会で、主催者の思いやもてなしの心が器として形になって表現されていると、客人にとって「より格別な体験」として深く記憶にも残りますね。
今回、一緒に開発した車で使う香りの器も、カーライフを提供する我々のアイディア、加藤さんの技術、香りの専門家の知恵が詰まった商品になりました。各々、異なる世界の専門家だからこそ、お互いを補完し、これまでになかったものを生み出せましたね。
加藤:
そうですね。陶器のプロ同士だけだと、できる範囲を知っていますから、アイディアを深掘る際も限定されてしまうのですが、今回は、違いましたね。そもそも、移動する場所にわざわざ陶器を置こうという発想がないですから!
試行錯誤を重ね、アロマの自然な香りを移動空間でも楽しんでいただける器になり、非常にうれしく思っています。近代的な空間である車に、陶器があるというのもその空間を和ませるアイテムとして、素敵だな、と思います。これからも、いろんな切り口をチャレンジしていきたいですね!