車とクラフツマンシップ Vol.4

往年の名車を現代に楽しむということ―1927年式ブガッティで走るイタリア・ミッレミリア(後編)

文:西川淳 写真:Jun e Co.

西川淳
モータージャーナリスト
1965年 奈良県生まれ。京都大学工学部卒業。(株)リクルート・カーセンサー副編集長を経て、99年に独立し編集プロダクションを設立。フリーランスとして雑誌、新聞、ネットメディアに多数寄稿する。専門はラグジュアリィカー、ヴィンテージカー、スーパースポーツ。2018-2019 日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本自動車ジャーナリスト協会会員。自動車の歴史と文化を語りつつ、産業と文明を批評する。京都在住。

2017年筆者が知人と共に参加したラリーイベントの最高峰イタリア・ミッレミリア。洗礼を受けた初日を終え、クライマックスへ―  前編はこちら

ミッレミリアの様子

2日目。いっきにローマまで走る。これが一日の最長で700キロ弱もある。スタートは朝7時。途中にCO*やPC*がいくつもあり、また歴史ある旧市街地に乗り入れてはスタンプポイント(通過チェック)があって、ランチ休憩もあったりするから、平均速度は自ずと下がる。時速50キロ平均で走ったとしても14時間掛かる計算!でも、よくよく考えてもみて欲しい。90年前のクルマで平均速度50キロ。それの意味するところは、「行けるときには全開で走っておけ!」だ。

フェラーラ、ペルージャ、ウルビーノなど、素晴らしい町並みを堪能したが、なかでもサンマリノ公国はハイライトのひとつ。城塞都市の細い道をヴィンテージカーで駆け上がる。得難い経験だ。

無事、ローマに辿り着いたあとが苦難だった。市内をパレード中に突然の豪雨に見舞われる。幌を掛ける間もなくぐしょぐしょになりながら、ほうほうのていでホテルへと辿り着く。日付がもうすぐ変わろうとしていた。

3日目はおよそ500キロ。昨夜の嵐がうそのように納まって、北のほうはどうやら晴れそうだ。ふたたび7時にスタート。ローマを抜けたあたりで急に雲ゆきが怪しくなる。降ってきた!路肩に停めて幌をかける。雨除けというより日除けレベルのトップだけれど、ないよりはマシ。次第に雨脚も強くなっていく。

シエナのカンポ広場

風光明媚なトスカーナに辿り着いたころには、一旦雨も上がって快晴に。シエナのカンポ広場では多くの観衆に出迎えられた。これまたミッレミリアのハイライトのひとつ。

パルマを目指して峠を越える際にも、再び雨が振ってきた。しかも午後遅い時間とあって気温がぐんぐん下がっていく。山の上ではなんと4℃。真夏の格好だった我々は、ただただ震えながら山を越えた。

いよいよ迎えた最終日。残すところわずかに(?)250キロ。もうここまでくればゴールしたのも同然、と気を抜いたわけじゃなかったけれど、スタート直後にアクシデント。いきなりエンジンストールしてしまった。燃料もスターターも問題ないのに、エンジンに火が入らないのだ。どうしたことだ?ドライバーの判断でプラグを換えてみようということに。運良くクルマが停止したすぐそばに、われわれのサポートメカニックのワゴンが停まっていた。強運だ。

15分ほどタイムロスしたがプラグを換えるとブガッティは見違えるように元気になった。ドライバーともども逆に気分もリフレッシュされて最後のステージに挑む。

史上最高のレーシングドライバー・タツィオ・ヌボラーリを生んだ街マントヴァでは、しんどかったラリーが急に名残惜しくなってきた。 ブレシアに戻ってきた!身体が急に軽くなる。市内に入ると周りの参加者たちがいっせいにフルスロットルをかける。サイドバイサイドに4、5台並んで、広い道を駆けぬけた。まるで、公道レース時代の再現だ。

そして、無事にゴール!

ミッレミリア完走

終わった瞬間、またいつか出たいと思う。
ミッレミリアの麻薬である。
 
 

*CO(CONTROLLI ORRARI):指定時刻。ゼッケン番号順に各車30秒ごとに、決められた計測ラインを前輪で踏み、走り抜けてく。例えば、1号車CO 9:30:30はゼッケン1番の車輌は〝午前9時30分30秒〟ジャストに計測ラインを通過しなさいの意味。*PC(PROVE CRONOMETRATE):短い区間を計測する競技。決められた区間を設定された時間でいかに正確に走行することができるかを競う。計測は路面に設置されたラインを車の前輪が通過した瞬間に行われる。

前編はこちら

車とクラフツマンシップ Vol.3

往年の名車を現代に楽しむということ―1927年式ブガッティで走るイタリア・ミッレミリア(前編)

文:西川淳 写真:Jun e Co.

西川淳
モータージャーナリスト
1965年 奈良県生まれ。京都大学工学部卒業。(株)リクルート・カーセンサー副編集長を経て、99年に独立し編集プロダクションを設立。フリーランスとして雑誌、新聞、ネットメディアに多数寄稿する。専門はラグジュアリィカー、ヴィンテージカー、スーパースポーツ。2018-2019 日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本自動車ジャーナリスト協会会員。自動車の歴史と文化を語りつつ、産業と文明を批評する。京都在住。

ミッレミリアの会場

ヴィンテージカーの愛好家たちによるドライビングイベントが今、世界中(といっても自動車先進国のなかだけだが)で興隆をみせている。日本でも盛んなラリー形式のツーリングイベントから、クラシックなレーシングカーによるサーキットイベントまで、その数も種類も年々増え続けていると言っていい。電動化や自動化といった実用車のCASE化が進んでいくなかで、対極にある趣味のクルマたちに斯界の好き者たちの興味がいっそう集まっていくことは、不思議でも何でもなく、むしろ当然というべきだろう。今回はラリーイベントの最高峰というべきイタリアはミッレミリアの内側を少しだけ覗いてみたいと思う。

ミッレミリアとは“千マイル”を意味するイタリア語。全行程が1600キロ前後あることに由来する。1927年から57年まで、三十年間に渡って開催された由緒ある公道レースがそのオリジンだ。アルファロメオやブガッティといった当時の高級ブランドがしのぎを削る舞台であったと同時に、ブレシアをスタートしローマを折り返してブレシアに戻ってくるという過酷なスピードレースでもあった。

57年に悲惨な事故が発生し以後の開催が禁じられたが、77年に現在のラリー形式イベントとして復活する。しかも出場可能なモデルは27年から57年の間に参加した車両および、その年代に生産された同型車(同ブランド車が認められることも)に限るという制約つきだった。

参加台数は今や450台以上を数える。一分毎に三台スタートしても、1号車が発車してから最後のクルマが出るまで実に2時間半もかかる計算で、それはそのままゼッケン番号の大きな参加者は目的地への到着時間も遅くなるという計算に……。

ミッレミリアでの走行車

ちなみにゼッケンの並びは最初にOMというブレシアの今は亡きブランドから付け、そのあとは年代順。つまり、古いクルマほど先にスタートできる。これは日本のラリーイベントでもだいたい同じで、みんなこぞって戦前の年式の古いマシンを購入したがる理由のひとつにもなっている。往年の流儀に則ってスタート地点はブレシアの街中だ。前々々日に引き取り、前々日に車検を済ませ、前日にはブレシア市内でシーリング。そしてスタートを迎えるという一連の準備を独力で行なわなければならない。

昨年に筆者が友人とともに1927年式のブガッティで参加したときの様子を、順を追ってリポートしてみよう。

初日。街外れにあるミッレミリアミュージアム(クラシックカー好きは訪問の価値あり!)でオフィシャルランチを楽しんだのちスタート地点へと向かう。いよいよ始まるぞ!というワクワクとドキドキだけで、他に何も考えられない。

大観衆に見送られてスタートした。昨年の行程は4日間で1700キロ以上。3日間で行なわれた時代よりも過酷さは薄まっているが、90年前のヴィンテージカーで気軽に走りたいという距離ではない。

ミッレミリアの観客

初日はパドヴァまでの280キロだ。助手席の仕事はナビ役で、コマ地図を読みながらドライバーにルートを指示しつつ、時間のコントロールやPC競技(通過タイムの正確さを競う。本国ミッレミリアでは120カ所もの設定があった)のサポートなどを行なう。50番のゼッケンをもらったが、まわりはもう何度も参戦経験のある猛者ばかり。沿道の観衆に愛想を振りまきながらチンタラ走っていると後が見る間に詰りだした。挙げ句にがんがん抜かされる。それはもう容赦なく抜かれる。そこが追い越し禁止だろうが、対向車線にクルマがいようが、おかまいなし。挙げ句の果てに信号だって守らない。日本の流儀からなかなか抜け出せないドライバーはただただ唖然。そう、これが本場のミッレミリア。国家警察の白バイ(青バイ?)が要所要所で先導もしくは交通整理をしてくれるというあたりも、お国柄というわけだ。 慎重に行き過ぎた結果、初日ひとつめのCO(到着タイム)競技には8分ほど遅れてしまった。なるほど、みんなが我先に急いで走るわけだ。速度や信号など交通ルールを守って走っていたら、まるで間に合わないのだから!

 陽もくれかけたパドヴァに到着した。後編はこちら

車とクラフツマンシップ Vol.2

時を経て、機能はアートに

文:西川淳 写真:Jun e Co.

西川淳
モータージャーナリスト
1965年 奈良県生まれ。京都大学工学部卒業。(株)リクルート・カーセンサー副編集長を経て、99年に独立し編集プロダクションを設立。フリーランスとして雑誌、新聞、ネットメディアに多数寄稿する。専門はラグジュアリィカー、ヴィンテージカー、スーパースポーツ。2018-2019 日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本自動車ジャーナリスト協会会員。自動車の歴史と文化を語りつつ、産業と文明を批評する。京都在住。

ペブルビーチ・コンクール・デレガンス会場の様子

職人ワザ、などと聞くと、とかくアーティスティックな仕事を思い浮かべがちだ。けれども真のアルチザンにとってみれば、自らの仕事を芸術=アートだなどと表現して欲しくないはず。すべては顧客のために。相手がどこの誰であれ、望まれたモノを実現するべく、経験と知識と創意と工夫のすべてを注ぎ込んでオーダーに取り組み、百パーセント以上の満足を提供する。それが職人の仕事というものだろう。もちろん、そうしてできあがった成果物の、あまりにも素晴らしい仕上がりぶりに、当事者以外がある種のアート性を見出してしまうのも仕方のないことだったりする。今回は人とクルマの関係において最も実用性が重視されるインテリアで、その時代時代における様々な要求に職人たちが応じ、仕上げ、機能を提供した結果、現代に生きる我々には芸術的に見えるコクピットを取り上げてみたい。取材地として選んだのは、有名ゴルフコースの18番ホールで毎年夏に開催されている世界でも屈指の自動車ビューティコンテスト、ペブルビーチ・コンクール・デレガンスだ。

フェラーリのハンドル

そもそも自動車のインテリアは、何をベースに発展したのだろうか。座席を含むキャビンスペースが馬車からの発展であることは容易に想像できるだろう。それでは、現代においてステアリングホイールや計器類(インストゥルメント)によって成立しているコクピットまわりはどうか。メーターやスイッチ、モニターなどが並ぶ場所をダッシュボードと呼ぶ。これはそもそも馬車において、馬が蹴り上げる泥や小石から御者や乗員を守るためのもので、馬がエンジンに変わった当初もその役割は変わらなかった。次第に自動車の構造が複雑になっていくと、特にエンジンの性能向上に比例して、機械の状況をモニタリングするための計器の類が必要になってきた。そこで、このダッシュボードに様々なメーターが配置されるようになったという。今日も採用されているダッシュボードパターンのほとんど全てが、自動車の黎明期に採用された、ウッドパネルやレザーパネル、装飾入り金属パネル、ボディパネル一体パネルなどの進化形でしかない。計器類こそアナログからデジタルへと変化し、モニターやエアコンが追加されるなど様変わりをしたけれども、ダッシュボードそのものの構成と機能は変わりようがなかったのである。ステアリングホイールもそうだ。現代ではなかなか大径でグリップの細いハンドルに出会うことはなくなったし、エアバッグやパドルシフトなど新たな機能も加わったが、基本的なカタチと役割に変わりはない(構造は変わりつつあって、メカニカルに繋がらない時代もやってきた)。

車の計器

そう、機能として変わらないものだからこそ、われわれは昔のダッシュボードにアートを感じる。当時のアルチザンたちが顧客の要望に応じてデザインし、配置し、素材を選び抜いた機能パートだったとしても、半世紀、一世紀と経った結果、立派な芸術品へと昇華したように見える。変わらないコトがあるから機能を理解できるし、だからこそ現代ではありえないデザインに惹かれてしまうというわけなのだろう。ヴィンテージカーが“走る芸術品”と呼ばれる所以のひとつである。当初はいくつかのメーターやスイッチだけで構成されていたダッシュボードも、自動車のメカニズムが複雑になり、快適便利装備が増えるにともなって、次第に煩雑になっていく。ダッシュボードのみならず、ハンドルやルーフライナーにまで操作系の配置がおよび、センターコンソールも追加された。

車のシート

もう少し未来には、さらなる革新が待ち受けている。面白いことに、いわゆるCASE(コネクテッド、アウトノマス、シェアリング、エレクトロニック)が進むにつれて、ダッシュボードは先祖帰りを果たす。ふたたびモニターのみの“板”(ボード)となり、さらにはハンドルさえも無くなっていく。そこに最早、芸術性を見つけることなど難しいことだろう。少なくとも現代に生きる我々の審美感には、響かない。むしろ、そのボードをキャンバスに何を描くか。未来の職人仕事はそこにあるのかも知れない。

車とクラフツマンシップ Vol.1

強靭なシルク

文:西川淳 写真:タナカヒデヒロ

西川淳
モータージャーナリスト
1965年 奈良県生まれ。京都大学工学部卒業。(株)リクルート・カーセンサー副編集長を経て、99年に独立し編集プロダクションを設立。フリーランスとして雑誌、新聞、ネットメディアに多数寄稿する。専門はラグジュアリィカー、ヴィンテージカー、スーパースポーツ。2018-2019 日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。日本自動車ジャーナリスト協会会員。自動車の歴史と文化を語りつつ、産業と文明を批評する。京都在住。

  

『伝統工芸』。現代に生きる我々は、ともすると何かしら古き佳き時代のモノやコトを、この四文字で軽く表現しがちである。けれども、その“古き佳き”モノたちはというとたいてい、その昔の『最新技術』であったことも決して忘れてはいけない。たとえば、今、観光客で賑わう京都の神社や仏閣の名建築も、建立当時は“最新”であった。 
 そして、“最新”をもって世に知らしめ、歳を重ねて“伝統”へと紡ぎだすのは、いつの時代も、“職人”=アルチザンの役割だ。本連載では、クルマの今と昔を背景におきつつ、そこで重きをなしてきた職人たちの成果をつまびらかにしていきたい。

マセラティのシート

  

第一回目は、シートの生地。
 ところで皆さんは、高級車のシートというと、何を思いだされるだろうか。ロールスロイスやベントレーに使用される、滑らかで香りのいい本革シート、といったところかもしれない。
 高級車=本革シート。なるほど、今ではそれが定番で、レザーのチョイスにもいろいろあるけれど、高価なレザー生地ほど柔らかく発色も良いため、好まれている。けれども本革シートはその昔、決して高級品というわけではなかった。むしろ、耐久性重視のヘビーデューティ品で、ショーファー(運転手)席専用のマテリアルとして重宝されていたのだ。前席が本革で、後席が織物。今でも世界のリムジンではそれが常識。事実、天皇陛下が乗られる歴代御料車の後部座席(玉座)に西陣織が使われてきたのは、有名な話である。

マセラティのシルクシート

  

レザーも良いが、ファブリックも面白い。そういう時代がこれからまたやってきそうだ、と思わせてくれたのが、マセラティとゼニアのコラボレーションだった。なかでも、最新モデルに採用されるエルメネジルド・ゼニア・インテリアの“シルクシート”に今回はスポットを当ててみたい。
 シルクというと、艶やかな見映えや柔らかな触感というイメージがどうしても強く、シート生地になんて使おうものならすぐに傷んでしまうんじゃないか、とつい心配になってしまう。ところが、そもそもシルクという素材は織り方次第でパラシュート用としても使えるほどの強靭さを持ち合わせている。

マセラティのシルクシート

  

マセラティのシート用にゼニアが開発した100%天然のマルベリー・シルクも、通常のスーツ用などに比べて10倍も細く撚られており、さらに座席用はヘリンボーン柄とすることで耐久性を上げる工夫をした。ポルトラナフラウのエクストラ・ファイン・グレイン・レザーときめ細やかな絹織物の組み合わせは、見た目にも既に“別格”が漂っていて、見飽きるということがない。
 シルク生地を、高性能車用のシートとして改めて開発する。見映えや座り心地のみならず、耐久性や耐光性、不燃性など、服飾用とは別次元の要求を乗り越えて世に生まれでたシルクシートに、現代におけるアルチザンの大いなるチャレンジ精神を垣間みた気がした。