
新年を彩る大切な人への贈り物、こだわりは時代を超える
文:山本淳子 イラスト:黒岩多貴子
山本淳子
平安朝文学研究者 京都学園大学人間文化学部教授
1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。現在、京都学園大学人間文化学部歴史民俗・日本語日本文化学科教授。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。
『源氏物語』で正月を描く「初音」の巻。「年たち返る朝(あした)の空の気色(けしき)、なごりなく曇らぬうららけさ」と、元旦の快晴の風景から書き起こされる冒頭の一節は、いかにもめでたい。室町時代の貴族・三条西実隆は、毎年元日にはこの巻を読んで初春を言祝いだと、自らの日記に書き記している。
ところで平安貴族は、正月を前に晴れ着を新調した。「初音」の巻での正月を迎えるにあたって、光源氏も装束を用意している。だが彼の場合は、それがただごとではない。関わっている女性たち皆の為に準備するからだ。新築の六条院なる約4500坪の豪邸に住む妻や養女、別宅に住むもと恋人など、それぞれのために彼は装束を選んだ。「衣配り(きぬくばり)」という『源氏物語』でも有名な場面である。
光源氏のもとには、職人たちの技を凝らした織物が集まっている。「贈るならそれぞれの女性に似合うものを」と妻の紫の上に勧められて、先ずはその妻のために、彼は最も女性らしく華やかな色合いのものを選んだ。平安の女性装束では、重ね着によって襟もとや袖口に美しい色のコーディネートが現れ、その取り合わせには名前までついている。紫の上には、「紅梅」と名付けられた赤系のグラデーションの数枚。さらにその上に、ぶどう色の布地にこんもりと文様を織り浮かせた一枚を羽織る、豪華でつややかなセットである。いっぽう、七歳になる娘の母である明石の御方には、濃い紫の数枚を重ねた上に、白地に梅の折枝や飛び違う蝶、鳥などの文様を織り出した一枚を羽織るセット。色合いといい柄といい、高貴な雰囲気のものである。都から離れた地で育ったとはいえ気高い品格を漂わせた彼女にはぴったりで、紫式部のセンスが光っている。
これらの装束は、その染色の方法が、平安時代の法典である『延喜式』に載っている。インド・マレー半島原産の高木「蘇芳(すおう)」や、希少な紫草などを使うその手法は、京都の吉岡幸雄氏により現代に再現され、世界的な評価を受けている。
まさに「きわこと」は時代を超えるのである。

平安のことば『源氏物語』は「もののあはれ」、『枕草子』は「いとをかし」
文:山本淳子 イラスト:黒岩多貴子
山本淳子
平安朝文学研究者 京都学園大学人間文化学部教授
1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。現在、京都学園大学人間文化学部歴史民俗・日本語日本文化学科教授。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。
平安時代を代表する言葉、「あはれ」と「をかし」。世にしばしば、『源氏物語』は「もののあはれ」で『枕草子』は「いとをかし」だという、あれである。この二つは、現代人でも嗜みとして知っているのが当然の、基本語と言ってよい。とはいえ、高校時代の教科書ではどちらも「風情がある」と訳されていただろう。高校生にとっては「風情」など最も遠い世界のことで、美しいが退屈なことばに思えたかもしれない。
だが、その「あはれ」と「をかし」が一瞬で、しかも二つ共に明快にわかる方法がある。それは、「あはれ」は「あ」で、「をかし」は「お」だということだ。
「あはれ」は、もともと感動詞出身の言葉である。何かを見聞きした時に、「ああ」とか「ああっ」とか、つい声を発してしまうことがあるだろう。それが「あはれ」だ。例えば、沈みゆく真っ赤な太陽を見た時。或いは逆に、富士山頂でご来光を拝む時。私たちは自然に、我を忘れてそれを見ている。その時、声を発する筋肉は緩み、丸く空いた口からはため息のような息が発せられるのみだ。その音が、「あ」であり「は」であり「れ」なのである。
「あはれ」は現代、「可哀そう」を意味する言葉である。この意味も、古くからあった。気の毒な出来事や人を目の当たりにして、他人ごとではなく心から同情の思いに駆られ、「ああ」と声を漏らすしかない。それが「可哀そう」の「あはれ」である。だから、本来「あはれ」は訳の仕様がない。「ああ」とか「しみじみ」とかで、言葉にならない、それが「あはれ」なのだ。これを知った今、あなたはもう平安びとと心を同じくしている。
では、「をかし」はどうか?笑える「おかしい!」も、首をひねる「おかしい…」も、現代語として生きている。少し引いて「おっ」と批評するのがこれらだ。これが「おお」となると、風流の意味の「をかし」になる。『枕草子』は、「春はあけぼの」で知られる初段にこれを使った。四季の中の「夏は、夜」のくだりである。「蛍の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りてゆくも、をかし」。群舞する蛍は見る者の心を奪う。だが一つ二つの光がかすかに点滅しながらゆくのは、また別の味わいがある。続けて『枕草子』は「雨など降るも、をかし」と言っていて、これなどまさに「乙なもの」の訳がぴったりだ。「いとをかし」と言う時、言う側は余裕をもって批評しており、「上から目線」なのだ。
『源氏物語』が「もののあはれ」で『枕草子』が「いとをかし」だということも、これで説明できる。『源氏物語』は人の世の愛憎や哀歓を描き、登場人物たちは「ああ」と嘆声や吐息を漏らし続ける。読者が発するのも「ああ」という感動の声だ。しかし『枕草子』は、ユーモアやウイットに富んでいる。「おや、なかなかいいね」「おっ、これもいいね」。私たちはそんな声を発しながら、この個性的で新鮮なエッセイを読むことになる。
「あはれ」は「あ」で、「をかし」は「お」。思えば、現代を生きる私たちの発声器官、つまり体が、平安の言葉を覚えているということかもしれない。

平安の職人たち
文:山本淳子 イラスト:黒岩多貴子
山本淳子
平安朝文学研究者 京都学園大学人間文化学部教授
1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。現在、京都学園大学人間文化学部歴史民俗・日本語日本文化学科教授。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。
花山天皇という人物がいる。十世紀の末に、若くして僅か二年間だけ帝位にあった天皇だ。彼は政治向きではなかったが、発明やデザインの才能に長けていた。そして乗り物が好きだった。歴史物語『大鏡』が、彼の考案したスペシャルなガレージのことを記しとどめている。それは当時「車宿(くるまやどり)」と呼ばれた車庫の、床に斜度を付けるという工夫である。奥を高くし、出入り口は低くして、頑丈な観音開きの戸を付ける。中の牛車は、いつでもすぐに使えるように常時飾り付けておく。そうすれば急ぎの出発の際、さっと戸を開けるだけで、人が手も触れないのにからからと車が出てくるという仕組みだ。後は乗り込むのみ。現代の自動運転には程遠いが、牛車の発進時の効率性を狙った発想が面白い。何より、こうした実用的な創意工夫を天皇が思いつき実際に作ってしまったところが、モノづくりの日本らしいではないか。
「大和魂」という言葉がある。現代の辞書には「日本人固有の勇ましい心」などと記され、「サムライジャパン」を始め、スポーツの世界になじむ感のある言葉だ。だが平安時代、この言葉はむしろビジネスの現場の言葉だった。政治や法律からモノ作りまで、先進国・中国から得た知識を、日本でどう使うか。そうした現場での応用力が「大和魂」と呼ばれたのだ。 モノ作りといえば、貴族のゴージャスな生活を彩る品々もまさにそれである。職人たちは大陸伝来の技術を日本の風土に合わせて応用し、寝殿造りなど大規模建築から扇や帯、髪飾りなど細かな装飾品づくりにまで、腕を振るった。
そんな職人たちが『竹取物語』に登場する。かぐや姫が、群がる求婚者たちに難題を出して結婚を断る場面だ。姫から蓬莱、つまり仙人の島に行って「玉の枝」を持って来るようにと言われた皇子は、一計を案じる。まずは船出した振りをしてこっそり戻り、超一流の職人たちと一緒に秘密の工房にこもる。そして千日をかけて、金銀白玉でできた見事な「玉の枝」を作らせたのだ。もちろん蓬莱産ではないので、本物とは言えない。だがその出来は、かぐや姫でも贋物と見抜けないほどの素晴らしさであった。しかしそれは結局、彼の作らせた贋物とばれてしまう。なぜか。かぐや姫宅に職人たちがやってきて工賃を請求したからだ。皇子は職人たちに工賃を払っていなかったのだ。真実を知ったかぐや姫は彼を振る。ケチな男はもてないという笑い話だ。
それにしても、職人たちの作った金と銀の枝はどんな輝きを放っていたのだろうか。白玉の実はどれだけ清らかだったろうか。もちろんファンタジーの話だが、京都国立博物館などに今も遺る平安時代の工芸品を見れば、その精緻さが想像される。高い技術に裏付けられた世界に一つだけの品。その魅力は深々として、今も昔も人を魅了して離さないものなのだ。

セレブの車
文:山本淳子 イラスト:黒岩多貴子
山本淳子
平安朝文学研究者 京都学園大学人間文化学部教授
1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。現在、京都学園大学人間文化学部歴史民俗・日本語日本文化学科教授。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。
平安貴族にとって乗り物と言えば、牛車である。馬は庶民でも乗るが、牛車は貴族ではないと持つことが許されない。それも、身分によって乗れる車種が決まっている。だから、牛車で出かけることはそのまま、セレブやその関係者であることを意味した。スピードは、人の歩く速度か、せいぜい小走り程度。牛を操る牛飼童が、牛や車体に乗るのではなく横を歩いてゆく仕組みになっていたからだ。四人乗りで、今の乗用車と同様に上座と下座があり、今とは逆に前の座席のほうが上座とされたという。京楽真帆子『牛車で行こう!』(吉川弘文館)が、豆知識満載で面白い。
さて、その牛車を、カスタマイズしようと思いついた人物がいる。『枕草子』の作者・清少納言だ。彼女は皇后の侍女なので、役所に牛車を用意させ、梅雨時の早朝、ホトトギスの声を聞くために同僚たちと出かけた。季節ならではのこの鳥の声を聞くことは、都人の風物詩だったのだ。行く先は賀茂の奥にある知人の別荘で、果たしてホトトギスはかまびすしく鳴き合い、清少納言たちは風流を満喫する。カスタマイズは、この帰途に牛車に乗ろうとして思いついたことだ。やはり季節ならではの卯の花が、辺りには見事に咲き誇っていた。それを折って、牛車の屋根にも簾にも挿せるだけ挿した。結果、牛車はまるで、卯の花の垣根を牛が牽いて行くかと見えるまでに。花を付けた牛車と言えば、現代でも京都の三大祭りの一つ、葵祭で見ることができる。行列の主役の一つである勅使の牛車で、屋根から藤の花房を垂らした華麗なものだ。だが清少納言の牛車は屋根どころか車体中が花。当然、この趣向は大うけにうけた。その度を越した弾けっぷりが良いと、笑いながら褒められたのだという。清少納言自身のご満悦は言うまでもない。
牛車と言えば、清少納言は走らせ方にもこだわりを抱いていて、『枕草子』には車格によって似合う速度が違うと記している。皇族や閣僚級貴族である公卿(くぎょう)用の「檳榔毛(びろうげ)」は、ゆっくり走らせるのが良く、急がせると見劣りがするという。確かに、最高級車はゆとりをもったスピードで走っていてこそ、細部に至るまでの輝きもちゃんと見て取れる。鑑賞に堪える車には、鑑賞できる速度で走ってほしいのだ。もちろんそこには、乗る人の心のゆとりや品格も感じ取れるというものである。一方でカジュアルな「網代車」は、軽快に走らせるのがよいという。牛車の気配がすっと通り過ぎたので、ふと目を挙げると、もう車はおらず、ただ走ってついてゆくお供の姿だけ。あれ、どなたの牛車だったのだろう。見るものにそんな気持ちをかきたてる、アクティブさが似合うというのだ。なるほど千年前から、車は乗って楽しむだけのものではない。見て楽しまれもするものだった。清少納言が自分の牛車に工夫を凝らし、見る人を喜ばせたのも、そんなライフスタイルによっている。季節を楽しむ。車を楽しむ。そして、自分らしさを楽しむ。王朝人はそのように暮らしを彩った。日常の中で、別格の贅沢「きわこと」を堪能したのだ。

極上を超えた上質を求める精神
文:山本淳子 イラスト:黒岩多貴子
山本淳子
平安朝文学研究者 京都学園大学人間文化学部教授
1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。現在、京都学園大学人間文化学部歴史民俗・日本語日本文化学科教授。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。
現代語でも、とことんまで突き詰めることを「極める」と言い、究極のあり方を「極み」と言う。平安の貴族たちも、栄華を極め、贅の極みを楽しんだ。だが彼らには、その「極み」を「異」にした、つまり極上をさらに突き抜けた世界が見えていた。それを指すのが「きわこと」である。極みを超えた上質さ。比べもののない別格であることを、彼らはこう呼んで褒め、また憧れたのである。
「きわこと」は『源氏物語』にも登場する。主人公光源氏が政界の頂点に立ち、娘を天皇家に嫁がせるという、この物語で最も幸福感に満ちた場面でのことだ。光源氏は娘に持たせる道具を整えるが、その中には冊子本など仮名書きの書物があった。もちろんすべて手書きである。印刷技術は平安時代にもあったが、現在の絵画と同様で、一点ものにこそ価値があったのだ。その時、彼が思い出すのが、かつて六条御息所が何気なく書いた文字の見事さである。「あれは『きわこと』、別格だった」と彼は言う。六条御息所は、光源氏の女君の一人として知られるが、もとは皇太子妃である。彼女は極上の生活を送る都でも有数の貴婦人であった。だがそれだけではなく、自らが別格の書をものする、教養人であった。それを光源氏に懐かしく思い出させるところに、『源氏物語』の美意識がある。
京都は平安の昔から、こうした価値観を受け継いできた。そして今も、「きわこと」はこの町に息づいている。ならば今、身のまわりに「きわこと」を置き、それと共に日常を送りたい。極みを超える精神性を、いつもさりげなく感じていたい。光源氏がそうしたように。